連載小説「グッド・バイ(完結編)」20

(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。

・迷走(一)
 参宮橋から代々木方面へ、通りを男が歩いている。早い春の夕方、風も冷たく通りを歩く人達の外套もまだ見目重い。黒に焦げ茶色に、カーキ。丸めた背中やすくめた首が、街灯も増えてきたといえ、街並みをどんよりさせている。そんな中、この男だけは、随分薄手の、さわやか藍色のコート。見ればそこそこの好男子。背もまっすぐに正面向いて、颯爽歩いている。溌剌の男子とはまさに彼のことだろうか。
 いや、そんなわけない。なぜなら、この男、田島。本当は分厚いコートが着たかった。寒い。鳥肌が出る。我慢して春先取りの軽装。オシャレだと、思いたい。鳥肌がばれてやしないか、ビクビクとして、いやビクビクとしてるのは凍えてるのか、よく見れば顔色も青白いし、あっ、蹴躓いた。
 田島は戸崎さんのうちへ向かう途中であったが、歩いているうちに面倒になってきた。この道も、戸崎さんに知り合って最初のうちは心綺羅びやかに歩いたものだ。それがいつの頃か、段々と歩くのが面倒臭くなって来た。今日は特別に足が重たい。キヌ子は連れていない。田島一人。回りくどい演技は卑怯で失礼だと今更ながら思ったから? なあにそんなわけない。この間、田島はキヌ子にコテンパンに言われ、そして落ち込んだのだ。腫れ物には触らぬ。臭いものには蓋と錘と閂。が信条の田島はキヌ子にはしばらく近寄れぬ。いつの間にかキヌ子が少し怖い。こき使ってやろうと思っていたのがいつの間にか打ちのめされている。強欲女史のおっしゃることは地に足が着いていて、田島のどこかで聞きかじった話とは違っていた。田島の話は伝聞。薄っぺら。嘘。ただでさえ最近は虚しい気持ちがしていたのに、キヌ子に突かれてもうボロボロ。
「やあ、少しご無沙汰ぶりです」
 おかしな挨拶をして田島は戸崎さんの家に上がり込む。
「お茶を淹れてきますわね」
「ええ、どうもそれは助かります。外はまだ寒いですから」
「そんな格好ではさぞかし寒かったのでしょうね、少しお顔も真っ青で」
 しまった。
「まあ暖かくも、なって来てはいます」
 戸崎さんは唐草のような模様の付いたティーカップにお茶を用意してくれて、
「近いうち、海へ行きたいですわ。私どうせ泳げやしませんから、寒くても静かな海の方があうの」
 田島も泳げなかったが「そうですか、寒い海もきれいなものです」とだけ。
 何も、今日言わなくてもいいではないか。綺麗な海を2人で見て、またその後ででも。
 やっぱり、キヌ子がいないとダメかもしれない。