連載小説「グッド・バイ(完結編)」18

(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。



・誘惑(三)

 イヒヒヒ、これはお金も掛からないし、上玉。と田島は思い、その後、戸崎さんと進んで懇意になった。戸崎さんは、田島が文士先生連中から仕入れてきた出鱈目の、嘘とも本当とも確かめようのないような、いかにもインテリジェンスを気取った話とユーモアにどっぷり。
 それがしかし、この頃からだ。田島はなんとなく虚ろであった。戸崎さんと楽しく過ごして、それが一体なんであろう。楽しいということには、それ自体実は価値がない。ハピネスの表層としてジョイが浮かんでくることはあれど、ジョイの獲得はハピネスの実現ではない。戸崎さんとの関係には、ジョイはあれどハピネスはなかった。戸崎さんだけではない。田島、遊び歩いているが、それはハピネスとどうにも呼べない代物ばかりである。そして、楽しいのに退屈。ああ永遠に酔っ払っていたい。

「ほんとうに、もう薄汚れのカボチャみたいなみみっちい男ね、あなた。」
 田島、ついにまたキヌ子を呼んで、話を、いやもうこれは相談、相談をした。食堂で、この女、また大食らって、それも田島のお金なのに田島を哀れんで馬鹿にする。
「なにがみみっちいものか、君、失礼だぞ。僕はようやく人生の意味について考えだしたんじゃないか、享楽の時代を終えて。これは断じて崇高なことだ。」
「何が崇高よ、女遊びに飽きて来て、他に何の取り柄もないだけじゃないの」
 クー、鴉声なんかに相談するんじゃなかった。とは言え、キヌ子以外に相談したい相手もない。表向きの商売が雑誌である関係、田島には人生のことをいつもそれらしく書いている文士の知り合いもたくさんいた。古今東西の文学を知り、哲学を仏語や独語で読んでいる人間も、幾人知っている。しかし、誰の顔を浮かべても、それはただのしたり顔。どれもこれも、本当の話はできそうもない。でも、キヌ子は本当にあの連中よりマシかしら。あー、誰も、苦悩を分かってくれぬ。もういっそうのこと出家でもしたろうかしらん。いや坊主は嫌だ嫌だ。
「そんなことより、女の人はもうみんな別れたの? また付いて回ってあげるわよ。1日1万円くれたら。」
「何を言う。5千円の約束だ。」
「私も最近、かつぎの方が忙しいの、そんな5千円なんてケチなお金では駄目もダメよ。それか、あと何人か知らないけれど、もう今からでもパーッとみんな回ってしまって、人数分のお金頂戴。」
「なんて軽々しいことを言うんだ君、いいかい、別離して周るんだから、餅屋で餅を買うのとはワケが違う。一日に、いや一週間に一人が限度だ。」
「そうグズグズしているのが、あなた駄目なのよ。もう今日パーッと回って、パーッと払ってくれれば、そしたら私も儲かるし。」
「人間の、心の話をしてるんだぞ。君はカネの話しかしないのかね」
「いつも、詰まんないダジャレね。」
「ダジャレじゃない、そっちこそ、いつもお金お金」
「当たり前じゃないの、世の中お金以外何の話があるって、一体。」
「何とは悲しい人だ。精神とか、心とか、今も僕は心の話をしてるじゃないか。」
「心、そんな見たこともないもの知らないわよ。そんなもの、ありません。」
 田島、驚愕。