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カロリーメイトのこと

 はじめてカロリーメイトを見た時、一体何なのか分からなかった。カチッとスクエアな箱の中から出てきたのは金属質のピチっとしたパッケージ。フィルムの下から現れたのはこれもやけに四角く成形された物体。食べ物だということだったが、このまま食べていいのか何か調理する必要があるのかも分からなかった。恐る恐る一口齧ってみるとパサパサしていて、硬いドライフルーツの舌触りは悪く変な味だった。結局のところは食べてみても食べ物なのかどうか分からなかった。
 カロリーメイト・フルーツ味が発売されたのは1984年(最初のカロリーメイトであるチーズ味が発売されたのは1983年)なので多分この記憶は僕が5歳の時のものだ。曾お爺さんの見舞いで病院に行って、そのロビーみたいなところで食べた気がする。時間帯は夜で、そのロビーみたいなところはやけに暗くて静かだった。誰と一緒だったのか覚えていない。カロリーメイトみたいな当時はまだ新しかった食べ物をいかにも僕に与えそうなのは父親なので、たぶん父親が一緒にいたのだろう。曾お爺さんの病室を訪ねた記憶もない。なんとなくだけど、僕は病室には行かなかった気がする。

 僕はカロリーメイトが好きだ。
 とは言っても毎日食べているわけでもないし、毎日のように食べているわけでもなく、好きだと言っておきながらこう言うのもなんだけど毎日のようには食べないほうがいいだろうなと思っている。
 正確には好きなのはカロリーメイト自体ではなくてそのビジョンとパッケージのデザインだ。
 バランス栄養食という今ではレトロ感すら漂う言葉。サイエンスの力で実現した完全な食べ物というイメージ。
 僕はもともと食事を面倒に思う傾向があるので、パッケージを開けて齧るだけで必要な栄養が摂取できるというイメージは心地良い。この心地良さは半ばオブセッションのようになっていて、自分でもびっくりするくらい昔の話だけど15年くらい前にはカロリーメイトを主題にした「fridge」という短い話も書いた。
 太宰の「令嬢アユ」へのオマージュというほどでもないけれど、もろに影響が出ている。若気の至りというか、もうこんなもったいぶった文体で何かを書くことはないだろうな。
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 『fridge』

 大塚君は、私の友人であるが、本当は大塚という名前ではない。中島龍一郎というのが本名である。しかし、誰も彼の事を中島君、龍一郎君と呼ぶものはなく、あるいは周りの者も彼の正しい氏名が中島龍一郎であるということを既に忘れている様子でさえある。どうして彼が大塚君という、所謂ニックネームを付けられるに至ったのか、それは彼の食生活の所為である。これは実に驚くべきことであるが、なんと大塚君は毎日三食、カロリーメイトのみを食べているようなのである。勿論、私は彼と毎日一緒にいるわけでもなく、別に誰かが毎日見張っているというわけでもないので、本当のところ彼が一体どのような食生活を送っているのか誰にも分かりはしないのであるが、しかし、至って正直者の大塚君がそのように奇妙な嘘を付くとは考え難い。大体、そんな風におかしな嘘が大塚君に何かの利益をもたらすこともないであろう。少なくとも、我々は彼がカロリーメイト以外の食べ物を食べているのを見た事がなかった。故に、我々は彼のことを、カロリーメイトを販売している製薬会社に因み、大塚君と呼ぶようになったのである。
 大学2年の夏に、私はあるイベントで大塚君と初めて話す機会を得た。少しノッポの大塚君は私と同じ大学の学生で同学年、共に一年浪人をしていて年齢も同じであった。意気投合し、私たちは以来友人関係にあるのだが、定食屋にでも行こう、と私が初めて彼を夕飯に誘った時、彼はそれをあまり快く受け入れてはくれなかった。
「僕は、実はカロリーメイト以外の食べ物を食べないことにしている」
 その時、定食屋で大塚君はオレンジジュースを一つ、それを頼むきり、肝心の定食は注文しなかった。もう半年間も彼はカロリーメイト以外の食べ物を食べていないと静かに告白した。毎日を、一日五箱のカロリーメイトで生活しているそうである。
「あれはバランス栄養食だから」
 それは確かかもしれないが、やはり尋常なことではない。私は彼に色々なものが食べたくならないのかと聞いたのだが「いや、ならない、僕は元々食べ物に執着がないのだ、食べるのは、栄養が摂れればそれでいい、僕はもっと他の事に時間と労力を使いたいのだ」と何やら厳粛を語るような表情で彼は断言した。
 大塚君の部屋を訪ねると、先ず冷蔵庫がないことに驚く。21世紀ともなれば一人暮らしの人間は大抵冷蔵庫くらい持っているものである。
「いや」
 と一言神妙に発して、それから大塚君は冷蔵庫の無い理由を語ったが、この「いや」というのは一体何を否定しているのか、私には理解できなかった。
「だって、僕はカロリーメイトしか食べないから、あれは常温で保存できるから冷蔵庫なんて必要ないのだよ。冷蔵庫なんて物は電気も食うし、場所も取るし、碌なものではない。食生活を豊かにすることの弊害に違いないと僕は思うね」
「しかし、君もジュースくらいは飲むだろう。お茶も。飲み物を冷やす場所がないというのは随分不便なものではないのか?」
 大塚君はアパートのすぐ表にある自動販売機で飲み物を購入するようであった。大概は水道の水で済ますので、特に不便を感じる事はないようである。
「どうだ、これは。立派なものだろ。12万円もしたんだぜ。水は生命体の基本だからな。それくらいのお金は仕方が無い。大体、君、考えてもみてくれ。何処に水道の水を送り出すセンターがあるのか知っているか? 僕は知らない。その何処かも分からない、もしかするとかなりの遠方から水道の水は地下のパイプを通ってやってきて、そして、例えばこのようなアパートならば一度屋上のタンクに、それも年に一度くらいしか掃除もしないタンクに溜めて、それを再び管を通じて蛇口の先までもってくるんだぜ、そんなものがキレイだと思うかい? 僕は絶対におかしいと思う。どこかで汚染されるのは必至だよ。だから蛇口にフィルターを取り付けるのは当たり前のことだ」
 大塚君は、料理をしないので全く生活感のない粗末で小さなキッチンに、矢鱈とピカピカして大きく鎮座する浄水器を私に自慢した。特殊な浄水機であらゆる不純物を除去するフィルターが入っているそうだ。
「どうだい、水を一杯」
 大塚君は自慢気に、グラスに水を注いで私にくれた。私は特に喉が渇いていた訳でもなく、どうせならコーヒーか何か嗜好性のあるものを望んでいたのだが、この際致し方ない。その特殊なフィルターを通じたという水を、ゴクリと一口、それから少し水を聞いてみた。味は無かった。うまいだろ、と言われたが、何も味がしないので返答のしようがない。
「うん、確かに良く浄化されているみたいだ」
 私は曖昧に返事をしておいた。

 大塚君がカロリーメイトしか食べなくなった経緯を、私は一度尋ねたことがある。いい加減にイライラとしてきたのである。折角みんなで御飯を食べに行っても、彼は何も食べない。何を食べるのかは個人の勝手であるが、例えば新しく見付けた内装も料理もスタッフも申し分のないような店で、これがおいしい、それもおいしい、と私達が騒ぐ横に座り、大塚君は、ふーんそうなのか僕には関係の無い事だけどね、というような面持ちで水でも飲んでいるのだから、正直な話、私達はいい気がしないのである。友人なので、みんなで何かを食べに行こうというときに誘わない訳にも行かないし、何処かに出掛けた帰り、夕飯を食べに行って締め括りにする事だってある。だが大塚君が来ても、君は何をしに来たのだ、と内心では思ってしまうのである。気を使って、「何か食べればどうだい」といっても、「僕は食べる事には関心がないのだ」と、まるで食事を楽しむ私達を蔑むようなことさえ、たまに言うのである。
 ある日、友人の演劇を見に行く前にカフェでランチをとっていた時、またしても水を飲んでいるだけの大塚君にイライラしながら私は言った。
「そういえば。大塚君はいつからどのようにしてカロリーメイトしか食べなくなったのだい?」
「うん。すこし長い話になるのだけど」
 何も食べないで、やっぱり食事中少しだけ気まずそうな大塚君は、そう言って話し始めた。
「僕だって勿論、生まれてからずっとカロリーメイトしか食べなかった訳ではない。大学一年生の途中までは普通に物を食べていたし、料理だってしていた。アパートの前にある自動販売機ではカロリーメイトが売られていた。今も売っているのだけど。一人でアパートに住んでいると、実家にいた時とは違って部屋に食べ物が無い時は本当に何もない。そこで、ものすごくお腹が空いている時にどうするかといえば、僕はその自動販売機でカロリーメイトを買う訳だ。コンビニやスーパーに行ったり、あるいは定食屋に行ってもいいのだけど、それだとそれなりに服を着替えたり頭を整えたり髭を剃ったりしなくてはならない。もう朝起きてお腹が空いていて着替える気力も無い時なんか、アパートの前の自動販売機というのはとても便利なのだよ。そうするうちに、だんだんとその自動販売機でカロリーメイトを買うのが癖になってきた。楽だ。楽なうえ、すぐに食べる事が出来るし、高くもない。初めはお腹が空いて、それで着替える気力もないという時にだけ買っていたのが、やがてお腹が空いたらすぐに自動販売機に直行するようになって、自動販売機でカロリーメイトを買えばいいのだと思うとあまりスーパーへ買い物に行く気も無くなってきた。当たり前のことだけど、買い物に行かないと部屋には食べ物が無くなるわけで、それを補う為にも、僕はだんだんと、自動販売機でカロリーメイトを一気に5個とか、多い時だと10個も買うようになり、気がついたら1日3食がカロリーメイトになっている日が出始めた。そしてそんな日はだんだんと増えた。流石に不安になって。ほら、やはり栄養の事なんかも気になるからね。いい加減にきちんと普通の食生活をしよう、なんて思っても、カロリーメイトの箱の裏に、一日に必要なビタミンの半分が入っています、などと書いてあるのを読むとなんだか結構安心してしまって、そのうち、カロリーメイトではない食べ物のほうが栄養面で心配になってきて、食べ物はカロリーメイトでないと落ち着かなくなったのだ」
 確かに大塚君のアパートの前には自動販売機があって、飲み物とカロリーメイトが売られていた。部屋を出てすぐの場所で食べ物が買えるというのは魅力的なことに違いないが、いつも同じ物ではすぐに嫌になるのではないだろうか。近くで買えるという便利さよりも、例えばパスタが食べたいとか餃子が食べたいとか、そういった味覚的な意味合いでの食欲の方が勝るものではないのか。私なら少しの労を払ってでも、毎日同じ物を食べるよりかはある程度食べたいものを食べるという生活を選ぶ。大塚君にそんなことをいうと、だから僕には食べ物に対する執着がないのだよ、といつもの返事が返ってきた。

 そんな大塚君に彼女ができた。いや、できそうである。
「どうしよう、好きな人ができた。そして僕らはなかなかいい感じなのだけど、カロリーメイトの事を打ち明けて良いものか、カロリーメイトしか食べないだなんて、我ながら奇人変人もいいところだからな」
 本人はしっかりと理解しているのである。自分の食生活が異常であると。只、改善がもうできない。一種の依存症なのであろう。もう、僕には自分のカロリーメイト生活を自分で止める事が出来ない、病気だ、これは。大塚君は自分でそう言うのである。
「よほど心が打ち解けるまでは言わない方がいいのではないか」
「やっぱり、そうだろうな」
「というよりも、どうだろう、この際普通に物を食べる事にしては。カロリーメイトしか食べない人間というのは、やはり興ざめもいいところだ、それじゃあ、君はデートで食事もしないのか、大体食事というのは人間の生活で根本的なことだから、自分の彼女に食事のことで隠し事を通すなんていうのは至難の技だぜ」
 長い腕を組んで、すこし俯いた大塚君は、紙コップに入った山葡萄のジュースをじっと見つめている。秋が、本当に終わり、軽く吹いた風が冬の匂いを含んでいる。散乱した銀杏の葉が少し舞い上がり、そのいい加減な動きは周囲の景色をより閑散とさせていた。そこら中まばらに落ちている銀杏の葉は、冬の薄曇り空の下、黄金色に見えなくも無かった。この大量の落ち葉が、毎年何処へ消えていくのか私は知らない。誰かが掃除をしている様子も見た事がない。風に吹かれて何処かへ行ってしまうのか。雨に流れて何処かへ行ってしまうのか。何処かとは何処か。今の時間帯、食堂の周囲に人影は少ない。外に置かれたテーブルとイスを利用しているのは私達だけだった。冬のゆっくりとした午後の雰囲気が学校を包んでいる。
「よし。うどんを食おう」
「えっ」
「食べてみる事にする」
 大塚君は立ち上がった。顔は爽やかに笑っていたが、目は決心の目である。食堂の扉を開け、注文のカウンターへ向かう。もう一度、入り口の方へ戻る。トレーを、忘れたようだ。どうやら多少緊張しているらしい。以前に食堂で食べ物を注文してから一年半近くも経つとはいえ、高々、学校の食堂でうどんを注文するだけのことであるが、背後に、彼には普通の食生活を取り戻すという大変な目的がある。それを、どうにか理解して頂きたい。大学の食堂で、何故かおどおどしている大塚君は、何も、おかしくはない。私は、先に席をとって待つ事にした。なるべく端の目立たない席を確保する。大塚君がうどんにチャレンジしてどのような奇行に至ろうとも大丈夫なように配慮したのである。私は心配していたが、しかし、大塚君がこれからどのような振る舞いを見せてくれるのか楽しみであった。毎日毎日カロリーメイトだけを食べていると、どのような味覚になるのだろうか、そして一年半振りにカロリーメイトでないものを食べると人はどのような反応をするのだろうか。実に興味深いことである。
「やあ、御待たせ」
 大塚君が、すこし危なっかしくトレーを持って戻ってきた。湯気の立つうどんの器から、すこしだけ汁をこぼしたようである。トレーが濡れていて、そこからも薄い薄い湯気が登っていた。そして、そのこぼれた液体は何故かとろみを帯びていて茶色であった。匂いが、スパイシーである。大塚君が運んできたのは、よりによってカレーうどんであった。
「えっ。カレーうどん
「僕はカレーうどんが好きだからね」
 私はてっきり素うどんか、せいぜい、きつねうどん辺りを予想していた。これは一種のリハビリテーションなのであるから、刺激の強いもの、癖のあるものは控えるのが当然ではないか。これでは足の病から回復し、さて歩行訓練を始めようという人間がランニングにチャレンジするようなものである。
「あっ」
 お箸を持ってくるのを忘れたようである。また、席を立った。お箸なんてもうずっと使っていないから、お箸を取って来た大塚君はそう言って、いよいよ食事の始まりである。
「頂きます」
 お箸が、すこし不器用である。持ち方を忘れているのかもしれない。そろりとカレーうどんにお箸を入れた。
「よし、頑張れ」
「うん」
 なかなか、口に入れる決心が付かないようである。じーっと、うどんを見つめている。じれったい。カレーうどんは私も好きなのだ。代わりに食べても良いくらいなのである。そんなにじっと見詰めていてはうどんが伸びてしまう。
「何をそんなに躊躇う事があるのだい。君の好物だろ。それに、つい一年半近く前には普通に食べていたものではないか」
「それは分かっている。実際、僕だって今カレーうどんを食べたいとすら、それも結構強く思っているのだ。ただ、食べると何かが壊れてしまうような気がしているのだよ。長い日々だったからね」
「記録のことかい? あんな物に拘っていてはいけないよ」
 大塚君は、カロリーメイトを毎日5箱食べている。一月に大体150箱である。もうカロリーメイト生活は18ヶ月以上になるので、彼が食べたカロリーメイトの数はなんと2700箱を越える。大塚君は、その連続カロリーメイト摂取記録とでもいうものを何故かとても大切にしているのである。初めは何も気にしていなかったが、だいたい500箱を超えた辺りから記録が気になるようになったのだ、と言っていた。
「そんなもの、大した意味を持たないじゃないか。一体誰に見せるというのだい、特に誇るような記録でもないだろう」
「それは、そうだ。でも世間にはギネスブックというものもあるんだぜ」
「しかしギネスに認定されるには何かしらの証拠が必要じゃないのか。君は何か公式に認められるような証拠を残しているのでもないだろう」
「まあ、そうだ」
 ズズズッと、意外にもあっさり大塚君はカレーうどんを啜った。おいしそうに食べている。まるで普通である。とても、僕はカロリーメイトの生活を止める事が出来ないのだ、と悩んでいたようには見えない。
「ああ、食べてしまった。しかしおいしいね。僕は何を今まで躊躇っていたのかと思うよ。つくづく」
「気持ち悪くなったりはしないのかい」
 大丈夫なようだ、全然、平気なものさ。どんどんと食べる。スープまで飲み干した。
 私はあっけに取られて見ていた。彼はずっと悩んでいたのである。この異常な食生活を一体どうしようかと。それが、あっさり。今、私の前で平気な顔をしてカレーうどんを食べ終えた。普通の人よりも食べるのが早いくらいである。どうにも合点がいかない。やはり、怪しい。実は、私は彼のことを疑っていたのである。この一年の付き合いで、私は大塚君が大変誠実な人物であることを確信した。約束を破る事もない。待ち合わせには私の方が必ず遅れる。雪の日でも雨の日でも、彼は大抵10分も前に来ているのである。信頼して頼みごとを任せる事が出来る。どちらかといえば私がいつも彼に迷惑を掛けている。
 しかし、一つだけどうにも納得のいかない点があった。それは彼が、カロリーメイトしか食べないと主張することである。勿論、彼にとってこの嘘が何かの利益になるとは考え難い。しかし、本当にカロリーメイトばかりの食事で生活できるのだろうか。いくらバランス栄養食であっても、そんなに毎日毎日同じ物を食べるのはきっと体にも、そして精神にも悪いに違いない。でも大塚君はとても元気で健康的であった。何か附に落ちないのである。確かに彼は冷蔵庫を持っていない、部屋で他のものを食べている形跡はない。私達の前では絶対にいつもカロリーメイトを食べている。だが、全てが彼の芝居に過ぎないのではないかと時々思う。冷蔵庫はなくても生活できるし、部屋で他のものを食べても私達が行くまでにキレイに掃除をすれば良い。つこうと思えばつける嘘である。だが、私達は大塚君にそれを言う事ができなかった。君の、カロリーメイトしか食べないという話、あれはでっちあげだろう。人のいい大塚君に、そんなこと言えるものではない。もしかすると一種の精神病である可能性も考えた。虚言癖、あるいは自分が他のものも食べているのに本当にカロリーメイトしか食べていないと思い込んでいるのかもしれない。黙って一年間、彼がカロリーメイトを食べる度に、そして、僕の食生活はどうしたら元に戻るんだろうと嘆くのを聞く度に、大塚君それは本当なのか、と彼に聞きたくなるのを抑えてきた。しかし、もう限界だ。あまりにも普通にうどんを食べ過ぎるではないか。しかも、カレーうどんを。今、私が疑いを述べれば、彼の事を一年間も疑惑の目で見ながら友人関係を保ってきたことがばれる。もしも本当に大塚君がカロリーメイトしか食べていないのなら、彼は真実を話していたにも関わらず自分が疑われていたという事実に傷を負うだろう。そんな疑いの目で自分を見詰めてきた私達を友達だと素直に信じた自分をすら呪うかもしれない。もしも全てが嘘ならば、彼は一年間も突き通した嘘を処理できないで、やはり大変困惑するであろう。どちらにしろ私と大塚君の関係に大きな波紋が生じることは確かである。だが、もう言わない訳にはいかない。
「なんだ、普通に食べられるじゃないか。実はカロリーメイトしか食べないというのは嘘だったりしてね」
 私は冗談めかして言ったのであるが、大塚君の表情は凍り付いた。
「そんなわけないじゃないか。僕はそろそろ帰る」
 それだけ言うと、彼はもう私の方をちらりとも見ず。いそいそとトレーと器を片づけて食堂を出ていった。私はどうしていいのか判断しかねた。声を掛ける事が出来なかったし、追いかける事もできなかった。大塚君の反応はあまりにもあまりにもであった。怪しい、やはりカロリーメイトの話は嘘だったのだ、ともとれるし、繊細な彼は私の発言に単純に傷ついたのだ、ともとれる。どちらが真実かはわからないが、少なくとも私が彼にとても不愉快な思いをさせてしまったことは疑い様がない。時々、何気ない自分の一言で人をすこぶる傷付けてしまう事がある。あるいは怒らせてしまう。そんな時自分の軽率な発言を心の底から悔やむ。その一言を発する寸前まで、全ては上手くいっていたのだ。たったの一言。それが全てを壊す。言葉は強力である。そして時々強烈である。言葉は呪いなのだと誰かが言っていたが、私はそれを本当だと思う。
 昔、高校で化学を教えて下さった先生が授業中にこんな事を言った。
「人間というのは色々な方法で分類できるけれど、でも僕はこんな分類を考えている。それは、入れる事に満足感を覚える人、出す事に満足感を覚える人、という分類だ。つまり、尾篭な話だけど、食べるのが好きか、うんこをするのが好きかということだ。僕はどっちかというと食べる時よりもうんこが気持ち良く出た時に満足感を覚える。みんなはどう?」
 なんということのない雑談であった。軽い笑いをとるためのものである。しかし、私の脳裏にその話は焼き付いてしまった。食べることと出す事、どちらにより強い満足感を覚えますか。私はそのときフロイト精神分析を思い浮かべた。フロイトの発達段階理論には幼児性愛という考え方があり、その中には確か口唇期と肛門期というものが存在していた。特に幼児期、口にものを運ぶことや排泄は性的な意味合いも帯びているとされている。初めてフロイト精神分析を知ったとき、あらゆることをセックスに結びつけて考える変なおっさんだと思った。今でもそう思っているが、彼の理論はそれほど間違ってはいないような気もしている。もしもこの世に恋や性愛が存在していなければ、我々の文明は如何に貧弱なものだっただろうか。異性が存在しないと仮定して、それでもあなたは胸に抱いている志や夢を遂げようと努力を行うであろうか。それから先生の問いに対する答えとして、私は出す方ではないだろうかとぼんやり思った。以来、私はトイレに入る度に何故かこの話を思い出してしまう。まさか当の先生もこの話をずっと覚えている人間がいるとは思っていらっしゃらないであろう。御自分でもそんな話をしたことすら忘れていらっしゃるかもしれない。もう、あれから何年も経つのだ。その間、当たり前であるが私はトイレにほとんど毎日行った。そしてその度に、つまりほとんど毎日、この話やフロイト、化学の先生だとか教室の状景を思い出すのである。これは異常な事だ。一種の呪いだと言っても過言でない。呪いというのはそういう意味だ。言葉は人の心に残り影響を与えつづけることができるのである。
 このカレーうどんの件で、私は大塚君に呪いを掛けてしまったかもしれない。彼はいたく傷つき、この先カレーうどんを見る度に今日のことを思い出して不愉快な思いをするかもしれないのである。ひどく心が重たくなった。

 丁度、一週間後に大塚君からメールが届いた。

 冬の気配が、いよいよ迫ってきました。このところ雨が続いていて、心まで冷え冷えしそうです。
 下手な挨拶は要らないか。
 先日は失礼した。僕は君にカロリーメイトのことが嘘だろうと言われて動揺したのです。
 実に申し訳ない。僕は、全てが嘘であったことをここに告白します。カロリーメイトを食べるのは、君や、それだとか今西だとか柴田だとか、そういった知人の前か、外で何かを食べる時だけ念の為にそうしていました。一体何の為だ、と君は思うでしょう。理由は至ってちっぽけなものです。僕は人の気を引く為にカロリーメイトしか食べない変人を装っていたのです。僕は自分に全く、人間としての自信が無いのです。僕と関わってくれる人々になんらかの満足感や喜びを提供する事が僕には不可能に思われます。詰まらない、普通以下の人間です。君のようにギターも弾けません。今西のように頭も切れません。柴田のように絵も描けません。僕は本当に下らないし、従って、知り合いも限られています。誰かと知り合いになるチャンスを得ても、うまく話す事ができません。僕はこれまでになんの変哲も無い人生を送ってきて、人に話すべきことを何も持っていないからです。自己紹介すら満足にできません。名前、年齢、住所、学校。これでお終いです。後は話すべき事を何も持っていません。趣味も特に思い付かない。好きなことも思い付かない。君のように音楽にも詳しくない。僕というのが一体どのような存在なのか、それを示すような話題が何一つ僕にはないのです。単なる一般的な消費者の一人に過ぎないのです。君のような、自分自身の視点で人生を楽しんでいる人と友達になれたのは奇跡でした。君と僕が同じ学校だったのが幸いでした。本当に下らない話題ですが、学校の本屋に何故サッカーの雑誌はないのか、リクエストボックスに投書を入れればいいのだけど面倒だ、誰か投書をしないだろうか、だってサッカーファンなんて沢山いるんだから僕らの他にもサッカーの雑誌を読みたいやつは沢山いる筈だぜ、という会話から始めて、僕らは仲良くなる事ができました。もしも僕らが同じ学校の学生ではなく、学校の話題で話を進める事ができなかったとしたら、あるいはサッカーのファンでなければ、僕は初めて君に会ったあの日に、確か大木さんのハウスのイベントだったとおもいますが、実は僕はカロリーメイトしか食べないのだ、と神妙に語ったと思います。それは僕が2年くらい前に開発した嘘です。人との話題に困った時、沈黙に耐えられない時、僕はその嘘を使う事にしていました。初めてその嘘を使ったのは、2年前の夏ソリッドソリッズのライブに一人で行ったときです。入場待ちで並んでいたとき、僕の前に並んでいた、髪を赤く染めて、いかにもロックが好きです、という格好の女の子に話し掛けられた時で、僕はファンのくせにあまりソリッドソリッズのことも詳しくはないし、ソリッドソリッズの話題は避けようと思い、たまたまカロリーメイトを食べた直後だったので、とっさに、カロリーメイトしか食べない事にしている、と言ってしまったのです。はっきり言ってカロリーメイトしか食べない人間は異常だし、どちらかというと魅力が無いと思います。避けられてもおかしくないと思います。でも、彼女は僕の話に興味を示してくれました。僕は食には興味が無い。栄養が摂れればそれでいい。本当は食べるのは面倒だけど、食べないと死ぬから、仕方なく食べている。僕は適当な言葉を並べ立てました。口にしてみると、それらの台詞は意外と格好いいように思えました。嘘は流暢に出てきて、以来、僕は同じ嘘を沢山の人に繰り返しています。沢山の人に同じ嘘を言っているうちに、自分でも嘘だけれどまるで本当のことのようにも思えてきました。そして、君にも同じ嘘をつきました。重ねて申し訳無く思います。僕の空っぽさ加減が君にばれる前に、何かで気をひいておきたかったのです。嘘を本当らしくするために冷蔵庫も捨てました。とても不便になりましたが嘘の為に耐えました。部屋にはカロリーメイト以外の食べ物の痕跡を残さないように心がけました。部屋でコンビニの弁当なんかを食べているとき、今、誰かがやってきたらどうしようかと、いつもビクビクしながら御飯を食べていました。自分の部屋でビクビクしながら御飯を食べるというのもおかしな話です。君たちが部屋に来るといった時は、とても念入りに部屋を掃除しました。来るとは言わないでも、いつ急に来ると言い出すか分からないので、毎日それなりの掃除はしていました。大変に神経をすり減らす生活でした。本当は、君たちと食堂にでも入れば、僕だってトンカツ定食でも頼みたかったのです。ぐっと我慢していました。涼しい顔をしてカロリーメイトを食べるように心がけました。一人で何処かへ出掛けても、君たちや嘘を言った他の人々にみつかるかもしれないと思い、なるべく飲食店には入りませんでした。カロリーメイトを食べました。いつもビクビクしていました。それに本当は嘘がばれているのではないかと、いつも心配でした。しかし、もう少なくともその心配はしなくてもいいのです。君には本当に申し訳が無いと思っています。本当に、重ねて、申し訳ありません。もう、恥かしくて顔を見せる事もできませんが、嘘をつき続けるという重圧からは開放されたので少しだけ気楽になりました。それでは御元気で。今までありがとう。

                         中島・オオツカ・龍一郎
                                       」


 あれから半年、大塚君はもういない。
 私は友人達とアジア料理の店で遅目の夕飯をとっている。なんとなく、このまま閉店まで居座るような様子である。申し分のない、丁寧にデザインされた内装と、気持ちのいいスタッフと、とてもおいしい料理の店。私達の他にカップルや会社の同僚らしきグループや学生らしきグループがいて、会社員のグループは何かの愚痴や文句を話しているようであったが、それでも幸せそうに笑っていた。例えば、私が自分の夢を叶える事が出来なくても、週に一度でいいから、気の知れた人もそうでない人も、色々な人達と飲んだり食べたりできれば、人生はそれで本当に幸せに違いないと思った。商売というのはとても素晴らしいものだ。商売に乗せられる、つまりお金儲けのネタにされるのは気分のいいものではないが、しかし、この世に商売が存在しなければ世界はどんなに暗くて冷たいものになるのだろう。商売は世界を彩っている。このお店も、あのお店も。様々なお店が存在するこの世界に私は心から感謝している。
「おい、ナシゴレンも頼もう、それから芋焼酎だ、柴田、どけ」
 中島龍一郎が生春巻きをほうばりながら、前から里香ちゃんに気があり、今日は隣に座って、せっかく二人の世界を形成しつつある柴田を押しのけて言った。いつも寡黙な上杉君はやはり静かにスコッチを舐めていて、今西やキミちゃんの話を聞いて曖昧な相槌を打っていた。中島龍一郎は既に顔が真っ赤で、ひょっとこのような表情をしている。随分酔っ払っているようだ。最近、彼女に振られたらしい。(終わり)