シーン32

 高畠は若い頃ニューヨークの大学に2年間留学していたらしい。美雪のような田舎の中学生にとってニューヨークというのは世界最先端のオシャレで遠い街というイメージしかなかった。ただ、高畠は最先端でもオシャレでもなく、安物の白いポロシャツと紺のスラックスを履いた田舎の中年英語教師で、映画で見るような流暢な英語を話すわけでもなく田舎の中学生でも分かるくらいに発音が悪かった。
「自己紹介のときに、日本から来ましたというのは、分かるよな、さっき勉強したフロムを使って、アイ アム フロム ジャパンだな」
 ジャパン? どうして日本じゃなくてジャパンなのだろうと美雪は思い、挙手の上発言した。
「ジャパンじゃなくて、I'm from Nihon.とかNipponでは駄目ですか?」
「えっ、だってそれじゃあ日本語でしょ。ニホンとかニッポンって日本語だから。日本のことを英語でジャパンっていうんだよ」
 大丈夫、中野ちゃん?と高畑はおどけた調子で付け加え。クラスの数名がクスクスと笑った。
「日本のことを英語でジャパンというのは知っています。そんなのは誰でも知っています。私が質問しているのはそういうことではなくて、どうして日本人である私達自身が日本と呼んでいる国のことをわざわざ外国人が勝手に呼んでいる呼び方で紹介しなくてはならないのかということです。たとえば私の名前は中野美雪なので、誰が何と言おうと私は自分のことを紹介するときに、私は中野美雪です、と言います。誰かが勝手に私のことをリサ・ランドールと呼んでいるからといって、私はリサ・ランドールです、とはいいません。そういうことです」
 おー言われてみればそうだとか、また美雪が変なことを言い出したとか教室が少しざわついた。それで通じるんだったらいいけど、通じないから、向こうの人にも分かるように言わないと。高畠は笑いながら言った。
「いっつも言ってるけど、コミュニケーションは優しさ。オッケー? 分かるように言ってあげないと。みんな何の為に英語の勉強してるの?受験?受験だけ? 英語でいろんな国の人と話す為でしょ。これからは英語の時代だから。そしたら分かるように言ってあげないと。オッケー? 優しさだぞ」
 "や・さ・し・さ"と高畑が大きく頭を上下させ、それに合わせて一音一音区切って大袈裟に言ったので、教室は再び軽い笑いに包まれた。しかし美雪は笑わなかった。これは本当は優しさなんかではなくて別の何かもっと屈辱的なもののような気がした。それにコミュニケーションを強調する割には高畑に英語でのコミュニケーション能力があると思えなかったし、いつも何か大事なことを誤魔化されているような気がしていた。高畑が生徒の前でおどけた態度を取るのは自身の無能を悟られないためではないかとも思えた。
 高畠のコミュニケーション能力は、2ヶ月後に転校生がやって来て判明した。転校生は佐々木香織という女の子で、両親ともに日本人だがサンフランシスコで生まれてニューヨークで育ったバイリンガルだった。佐々木香織は、私は英語のネイティブ話者なので英語の授業を受ける必要はないと高畑に繰り返して二度言った。英語で言ったところ高畠には理解不可能な様子だったので日本語で言い直したのだ。何かが完全におかしいと美雪は思った。高畑は、ここは日本で僕達は二人共日本人なんだから日本語でいいのにというようなことをおどけた調子で言った。
「日本人同士なのに急に英語で話すからびっくりしちゃったよ本当にもう佐々木ちゃん」
「英語の先生だということでリラックスしてつい英語で話しました。英語の方が私には自然なので。あと佐々木ちゃんというのは佐々木さんの間違いではないですか?日本語はそれほど詳しくもないですけれど」
「佐々木ちゃんというのはね、佐々木さんっていうのを親しみ込めて呼んだらそうなるんだよ」
「私はあなたとは親しくないので親しそうに呼ぶのはやめて頂けますか、それから授業についてですが受けないということでいいでしょうか」
「うーん、それはねえ、日本では中学校は義務教育でそういうことはできない。受けてもらわないと困る」
「日本で中学校が義務教育なのは私も知っています。そういう誰でも知っていることを聞いているわけではなくて義務教育の中にもこういった場合への配慮はあるんじゃないですかというのが質問です」
「うーん、ちょっと日本ではそういうのできないねえ。それに英語が話せるかどうかというのが授業の目的ではないからねえ」
 佐々木香織は1週間英語の授業に出席して、その翌週から学校には来なくなった。どこかの私立に転校したという噂だった。
 さらにその翌週、中野美雪は登校を止めた。