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京都から東京、2月、バイク、引っ越し and all: day 3

東京日記
 三軒茶屋の不動産屋から、下北沢のアパートへ向かう。今度も道は良くわからないが、時間の制限がないので気が楽だ。なんといっても鍵は僕の手の中にある。茶沢通りを北上して途中で一度道を間違えたが、すぐに下北沢。行き止まり路地の多い入り組んだ住宅街に僕がこれから住むアパートはあった。まだ8時半だけど、住宅街の中は静かで冬のクリアな空気が音を吸い込んでいるかのようだった。車もほとんど通らない。実際に物件を見るのははじめてだった。バイクが置けると聞いていたけれど、どこだろう。とりあえず入り口の前にバイクを止めてさっき受け取ったばかりの鍵で扉を開けた。静かな夜に知らない土地で知らない部屋の鍵を開けるのは変な気分だ。懐中電灯を点けてブレーカーを探して上げると、白い蛍光灯の明かりが部屋を満たした。前の住人が付けたままにして行ったいかにも普通の丸いペンダントライトはすぐに外すことになるだろうけれど、今はないよりましだ。ダイニングと寝室には蛍光灯、バスルームにはやや暗い白熱灯、和室には電器がなくて真っ暗。バイクから荷物を下ろしてとりあえず部屋の中へ放り込んだ。駐輪場らしきものはやっぱり見当たらないので、バイクは路駐する。ただ道路が車一台ギリギリ通れる幅しかないから、止めても問題なさそうな場所へ移動させた。
 ガスも通っていないし、布団もないので今日はホテルに泊まるつもりだった。部屋に入ってラップトップをデザリングでネットに繋いで周辺のホテルを探す。東京にはどこにでもホテルがあるだろうと思っていたら、下北沢にはホテルがほとんどなかった。一度アパートの”自分の部屋”に入ってしまうと、気が抜けて疲れがどっと押し寄せてくる。バイクの止められる比較的近いホテルを探していて、土地勘もないので段々と面倒になってくる。もういいや、今日はここで寝よう。

 問題は寒さだ。布団がないだけではなく、暖房器具もない。エアコンは付いているのだが、聞いた話ではもう古くてダメだから入居したらすぐに取り替えるということだった。実物を見てみると場末の安い旅館とか民宿とかにありそうな、リモコンが有線のかなり古いもので使わないほうがいいような雰囲気があった。もう一歩も動きたくなかったけれど、そうも行かないので一番近いコンビニを探して僕はまた外へ出た。
 ローソンでラーメン、けんちん汁、焼きそばパン、飲むヨーグルト、水、カロリーメイト、カイロ、70リットルのゴミ袋などを買って部屋に戻る。電子レンジもお湯もないので温めるべきものは全部コンビニで温めてもらった。熱が冷めないうちに全部食べて、それからゴミ袋とガムテープと新聞で寝袋を作ってから歯を磨いて、バイクに乗っているときと同様に着込んだウェアの下に新しいカイロを押し込んだ。
 床の上では硬いので、明かりのない和室に急ごしらえのゴミ袋寝袋を敷いて、そこに着膨れのままで入る。部屋が1階だからか地面の冷気が畳から伝わって来る。いや逆か、僕の体温が畳を抜けて地面へどんどんと吸い取られていく。和室の前はちょっとした庭になっていて、その向こう側の家についているセンサーライトがときおり点いたり消えたりしてカーテンのない窓から光が差し込んできた。ダンボールか何か、下に敷くものをもらってくれば良かった。畳を上げて重ねるという手もあったけれど、暗い部屋の中でそんなことをする気力はもうなかった。押し入れの中で眠ることも考えたけれど、カビとかを考えるとはじめて入った部屋の中の押し入れにはあまり入りたくない。

 疲れ果てていて寒くてもなんでも眠ってしまいたかったが、このまま寝てしまうと死ぬかもしれないと思ったので対策を考えた。ゴミ袋寝袋の中はすでにもう結露してベタベタだった。地面との接点を減らすために座って壁にもたれる。僕は一体なぜこんなことをしているのだろうと惨めな笑いがこみ上げてくる。
 選択肢は大きく分けて2つ。1つ目は、ホテルとか友達の家とかネットカフェとかどこでもいいけれど温かい場所へ移動すること。2つ目は、もうダメだというカビだらけ埃だらけかもしれないエアコンを点けること。
 体力的に移動は本当にごめんこうむりたかったので、僕はエアコンを点けることにした。実は、翌日になってわかったことだが、エアコンがダメになっていて交換するというのは間違いだった。エアコンは古いけれど別に動いていて、これだけでは足りないかもしれないから新しいエアコンも別に付けてもらえるというのが本当のところだった。だからエアコンはスイッチを入れると普通に動いて特にカビ臭くも埃臭くもなかった。なんだ。
 部屋が暖まると僕は一瞬で眠りに落ちた。

 翌朝9時前に引っ越し屋から電話が掛かってきて、そして荷物の搬入。
 元気な引っ越し屋と朝の光で、凍えて惨めな昨夜が嘘みたいな気分になる。でも、この倦怠感は本物だ。搬入の後、畳の上にベッドのマットレスを投げ出してその上でまた眠った。3時にガス会社が開栓に来るが、それまでは何もないしもうずっと寝ていたい。

 ガチャガチャと誰かが玄関のドアを開ける音で目が覚めた。
 えっ?鍵は掛けた筈だ。
 飛び起きて和室から出て行くと、吃驚した表情の女性と作業着を着た男の人が入ってくるところだった。
「あなた、どうやって入ったの?!」
 その女性は大家さんで、作業着の人はエアコンを付けに来てくれた電気屋だった。
「どうやってって、鍵でです」
「鍵は誰にもらったの?」
「不動産屋でもらいましたけれど」
「まあ、じゃああの人達勝手に鍵作ってるのね。ほんっとに困ったわ。あのね、鍵は全部私が持ってて、私が直接渡してるの、だいたい5本しかない筈でここに5本全部あるでしょ。あなた何本持ってるの?」
 大家さんは5本の鍵を差し出して見せた。
「2本です」
「じゃあ勝手に2本も作って、どういうつもりなのかしら。あとで電話して文句言います。そしてあの道に駐めてるバイクは多分あなたのよね。この物件にはバイク置き場はないの」
「えっ!」
「話は聞いています。バイク置ける物件探してたのよね。それで不動産屋が勝手に置けるって言ったの、私が聞いたのは全部事後的によ。仕方ないからうちの駐車場に駐めてね。うちの家は隣だから。隣の部屋に入ってくれてる人もバイク通勤なんだけど、バイクの駐輪場は別に借りてもらってるのよ。これじゃ不公平だけど仕方ないから。本当になんて不動産屋かしらね。色々話が早いから何かあったら不動産屋ではなくて私に直接言って。ピンポーンって来てくれればいいから。これで不動産屋に管理費払ってるんだから馬鹿みたいよ」
 とにかくバイクが置けるということでほっとして、大家さんの駐車場までバイクを移動させる。

 エアコンの工事はブレーカーの新設を伴うもので、2時間くらい掛かった。
 そのあと、しばらくしてガス屋さんがガスの開栓をしにやってきて、結局のところ一段落したのは4時前のことだ。開栓したてのガスで、僕は早速シャワーを浴びた。温かいお湯が体を流れ落ち、体の表面を覆っていた気だるさの膜みたいなものが流れていく。空腹や疲労や微かな緊張感の塊が体の奥底に残っていたが、血液の中には高揚感が巡っていた。これまで何かの記号に過ぎなかった東京という言葉が、生活の場という実在としてこのバスルームの外側に広がっている。ずっと昔何かのテレビ番組で飛行機のパイロットが選ぶ世界の夜景というのを特集していて、嘘だか本当だか第1位は東京の夜景で、その理由はどこまでも光る街が広がっているからというものだった。国際線のパイロットを何十年も務めているというその男は言った。「確かにきれいな夜景はいっぱいありますよ、単純にきれいさということならもっときれいなところもあると思います。でも東京はとにかくどこまでも広がっていてそれに圧倒されるんですよ、いつも」
 冬の夜は早い。そのどこまでも続くという光の街は、まもなく現れる。