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狭い世界の外側の無数の専門的な広さ

 パクリ問題で盛り上がるネットを見ていて、僕はコーヒーマニアのことを批判していた自分のことを恥じた。

 まず、僕が持っていたコーヒーマニアに対する批判がどういったものなのか説明しておくと、だいたいは「本当はもっと別のことをしたいのに、それをするのが怖いから本当のところは別にどうでもいいコーヒーに拘って誤魔化している」というものだった。
 コーヒーに凝るのは手軽だし、それに多少は高尚な気もしなくはないし、オシャレな気がしなくもないし、日常における「隙間時間」を利用した「癒し」になり得るし、ドミナントな飲み物で大勢の人間との共通言語にも成り得る。なんだかそれはそれで悪くない気がして、別に本当は缶コーヒーでもいいくらいなのに、辞めたいと言いながらもう4年以上働いている会社のこととか、長期休暇なんて望めなくて1年くらいの旅に出たくて仕方ないのに行けないこととか、そういうことを誤魔化す為にコーヒーミルを買ってみて私はコーヒーが好きなのだと自分に言い聞かせて、人には蘊蓄を聞かせているのだと思っていた。

 消費者としてのコーヒーマニアについてだけではなくて、お店についても否定的だった。有名な珈琲店に何件か行って高いコーヒーを飲んでみて、確かに変わった味だがコーヒーはまあコーヒーだなとしか思えなくて、そんなに違わないのに自分たちに付加価値をつける為にあれこれコーヒー豆の焙煎の仕方とかドリップの仕方とかについて拘りがあるようなフリをしているのではないだろうかと思っていた。

 コーヒーという飲み物は世界中で恐ろしく大量に飲まれていて、エナジードリンクとかヒロポンみたいに疲れてもう本当は休みたいのに休むことが許されていないときに飲むものでもあって、何かに追われて疲れ果てている人が眠い頭を働かせる為に仕方なくカフェインの投入を行っているのに豊かな香りとか寛ぎとかそういうものにうっすらと覆われていてまるでただ嗜好品として好きだからコーヒーを飲んでいるような気分にもなりやすくて、その巧妙なすり替えみたいなものがなんとなく嫌だった。現代社会という壊れかけの巨大な機械はカフェインの注入によって各部品に異常な負担を掛けながら動いている。そして強い国がカフェインを手に入れる為に弱い国では弱い人たちがこきつかわれて死んでいく。
 平和でリラックスしたイメージに包まれた、人々をこき使って作られた、人々をこき使う為の飲み物。
 デストピア映画なんかでよく人々が自らすすんで感情を消す薬を飲むように、それと同じように僕たちは好んでコーヒーを飲んでいるんじゃないかという気もして、そんな考えのせいでコーヒーというものに対して斜に構えずにはいられなかったのかもしれない。

 オリンピックエンブレムについて、ネット上でたくさんの素人が専門家やデザイナーの意見を「偉そうにしたいだけでしょ、素人でもダサいってわかるw」みたいな感じであしらっているのを見て、僕はコーヒーマニアに対して同じことをしていたのかもしれないなと思った。
 コーヒーマニアやコーヒーに詳しい人がコーヒーを飲むとき、感じている味はもしかすると僕の感じているそれと同じなのかもしれない。でも、その味の背後に広がる世界の広さには決定的な差がある。僕のそれは彼らのそれに比して圧倒的に狭いのだと思う。僕はコーヒーに関して素人で、その世界の広がりを知らない。

 現代社会には「素人のピュアな意見は専門家の凝り固まった意見より正しい」「自分基準の好き嫌いがイチバン正しい!」という考え方がかなり浸透していて、かつグラフィックデザインはパッと一目で目に見えるので素人が得意げに意見を表明しやすい。偏微分方程式を解かなくても、不規則な動詞の活用を何十個と暗記しなくてもオリンピックエンブレムは目に見える。本当は知識や経験や技術がないと見えない部分がたくさんあるのだが、そういう部分があるということを認めない人はたくさんいて、彼らは「素人にもぱっと見てわかるのか良いデザインだから、専門家にしかわからないようなのはダメ」と、もっともらしい詭弁を口にする。

 ほとんどトートロジーなくらい当たり前のことだが、ある専門分野においては素人は専門家に劣る。素人が「素人にも分かるように説明できないのはダメ」ともっともらしいルサンチマンを振りかざしても、素人が専門分野のことを理解することはできない。「素人さんの新鮮な意見が大事」とかいうリップサービスが、人々の自分は無能ではないと思いたいという欲求に合致して、さらにマスメディアやインターネットがそれをブーストした所為で、現代社会には「素人のピュアな意見は専門家の凝り固まった意見より正しい」という考え方がかなり浸透している。
 かつて貧なる弱者が「聖」を与えられたように、現代では無知で思慮も気力もない人間が「スマート」という称号を与えられようとしている。馬鹿が馬鹿なのではなく馬鹿にでも分かるように説明できないあいつが馬鹿なのだという馬鹿に都合のいい信仰が蔓延している。「CHA-LA HEAD-CHA-LA 頭カラッポの方が 夢詰め込める」と人気アニメのオープニングで歌われてから20年以上が経過して、子供達は今日も教室で「もっと分かりやすく説明して」「あの先生わかりにくい」と鉛筆を投げ出し、大人たちは池上彰に飛びつき「分かりやすい"分かりやすいプレゼンの仕方"」に躍起だ。

 分かりやすいのがいいというのは、それはそれで一つの考え方なのかもしれない。
 幼稚園児からおばあさんまでみんなでオリンピックエンブレムを考えて応募しよう!素人のピュアな感覚こそが望まれます。どれが一番いいかはみんなの投票で決めよう!というやり方で選ばれた素人の素人による素人の為のオリンピックエンブレムを使うことが、神聖な民主主義みたいで一番心地いいと思う人もいるかもしれない。

 けれど、素人の素人による素人の為のものは息が詰まる。
 素人の世界というのは狭っ苦しく広がりがないからだ。
 ついでに言っておくと「子供はみんな芸術家!」「子供は発想が自由!」みたいなやけに耳触りのいいフレーズも大嘘だ。
 子供は素人で子供の世界は狭い。

 素人の世界は狭い。狭く、浅く、息が詰まる。
 なぜなら、素人の世界は肉体という小さな装置に直接制限されているから。

 料理を例に挙げると、素人の世界が肉体に直接制限されているということが分かりやすい。
 一皿の料理を作るのに、素材の採取や育成まで遡れば、コストはいくらでも掛けることが可能だ。畑の土にも肥料にも産地にも牛の育て方にもシカの捕り方にも野菜の切り方にもスパイスの組み合わせにも無限の選択肢がある。一皿が1000万円する料理だって作ることは可能だ。だが、最終的に1000万掛けて出来上がった料理が到達するのは人間の舌にすぎない。人間の舌が感じることの可能なレンジは決まっている。1000円の料理と1000万円の料理にはコストに10000倍の差があるが、舌の上で10000倍の差は見られないだろう。これが1億だろうが1兆だろうが話は同じだ、どんなにコストを掛けても出口のレンジが狭い以上、ほとんど全てが無駄に終わる。
 味覚以外の感覚に関しても同じことが言える。
 僕たちが感じることのできる範囲は、感じることのできる範囲だけで、その外側のことは感覚では感知できない。
 贅沢の限りを尽くしてファーストクラスや豪華客船で旅行して一流ホテルに泊まって、自然の刺激を求めて時にはキャンプだってして、一流レストランで食事をして絶景を眺め、欲しいものは全部買って、エックスでも決めて踊り明かして、ゆったりと温泉にでも行って、何をしても、どこへ行っても、僕たちが体験できることは僕たちが体験できることだけだ。これは冷静に考えてみるととても息の詰まる話で、だからその世界の外側に出たくて僕たちは学んだり訓練したりする。そうして素人の世界を抜け出そうとする。
 1000万円のコストが掛かった料理の持っている世界がわかるのは、たとえばシェフとか農家とか食べ物に関する専門家だけだ。実際に感じた味の背後に広がる世界を想像するためには一定の知識や経験が必要で、そういったものは素人にはない。

 ここで「食べてパッとわからないことには意味がない」というのは簡単で、誰にでも感覚的にわからないことはほとんどフィクションでバーチャルで嘘でダメだと言いたくなるのはパッと聴いただけだと筋が通っているような気分になる。
 けれど、それでは僕たちの世界は狭いのだ。
 自分にはわからないけれどそのジャンルの専門家がこの世界のどこかにいて、先人を含めたそういう人達が自分にはほとんど関わりがないけれど人類の持つ観念的な世界を広げてくれていると考えたほうが嬉しくはないだろうか。ぱっと見ただけではほとんど同じアリにしか見えないのに、それを細かく分類したり生態を調べたりしている専門家がどこかにいるというのはなんだかほっとするし嬉しいことじゃないだろうか。何百年も前に書かれた詩について研究している人とか、地域によって同じ鳥なのに鳴き方が違うのはどうしてかという研究をしている人とか、そういう人達が自分の生活に一切関わりを持たないとしても世界のどこかに存在しているというのは僕には何かの救いみたいに思える。