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武術が「健康体操」であるということ

 前回、武術で武器の練習をするのは「邪魔者でもある武器と仲良くなる為、ひいては敵とも仲良くなり、宇宙とも仲良くなる」という話をしました。でも、そうするとこんな疑問が起こるかもしれません。

「じゃあ、別に武器ではなくても、なんでも扱いにくい道具を扱えるようになれば同じことではないか?」

 その通りです。

「道場を出ても、自分のいる所が即道場である。歩くこと即武術」というのは、そのことです。起源に人を殺したり身を守ったりする術があるので、そこで行われていた稽古を辿るのが一番素直な道ですが、別にサッカーでも自転車でもイスに座るでも立っているでもなんでも同じです。ただ、背景に理想としては「宇宙と1つになるシステム」を意識するかどうかということになると思います。自身の身体と周囲の環境を全体最適して生き延びていくという姿勢が武術ではないかと僕は思っています。今や伝説的と言っても過言ではないパンクバンド「ザ・クラッシュ」のジョー・ストラマーは「パンクとはスタイルのことではない、姿勢のことだ」と言っていますが、武術も同じことです。空手とかテコンドーとか八極拳とか、そういうスタイルではなくて「周囲と調和して自由自在に生き延びる」という姿勢が武術と呼ばれるものだと思います。子供の頃、「冒険野郎マクガイバー」というアメリカのドラマが大好きでした。マクガイバーは喧嘩は弱いのですが、科学知識と機転の良さに長けていて、敵に襲われたりどこかに閉じ込められてピンチになったりすると周囲にある有り合わせのもので武器や道具を作ってなんとかします。彼は入り身投げ小手返しも正拳突きもしませんが、間違いなく武術家です。

 段々と、武術の意味が自分なりに分かるようになって来ましたが、20歳の頃は正直なところ強くなりたいという気持ちがほとんどでした。ある日、合気道の道場で、稽古中に僕は先生に食って掛かってしまいます。当時、合気道には半信半疑で取り組んでいて、稽古が嘘の慣れ合いにしか見えないこともあれば、たまに「あれっ、今のはなんだ?合気道はすごいかもしれない」と思うこともありました。その日は開祖の植芝盛平先生に直接学んでいた先生の稽古で、僕は納得できないことがあったので色々とわかったようなことを言い続けました。細かいことは忘れてしまいましたが、「実戦的ではない」とかなんとか、本当に恥ずかしことを並べ立てていたのではないかと思います。これも本当に恥ずかしいことに、僕はとうとうと持論を展開して稽古は終了時間を大幅に過ぎてしまいました。先生にも他の道場生にもかなり迷惑だったはずです。そのやりとりの中で、先生に言われた一言がどうしても忘れられません。僕の主張していた「実戦的」がどんどん否定されるので、「じゃあ、実戦的でなくてもいいのなら合気道の稽古は一体何なんですか?」とイライラしながら言ったところ、先生はこうおっしゃいました。

「健康体操や」

 この言葉の意味が分かってきたのは、10年以上経ってからです。当時はこの言葉をトドメとばかり、数日後に僕は合気道をやめました。性急で浅はかな判断だったと思います。合気道をやめて、やっぱりあんな超絶な世界なんてないんだ、反射と筋肉を鍛えてメカニカルに合理的に戦うのがいいのだ、と判断して総合格闘技的なことを齧ったりするようになりました。「格闘技」から「武術」へ興味が戻るのは、その後甲野善紀先生に会ってからです。これも10年くらいは前の話なので、まだ甲野先生も有名ではなくて、内田樹先生がホストになって神戸女学院大学で稽古会が行われていました。内田先生もまだそんなたくさんは本が出ていなくて、今ほど有名ではなかったと思います。比較的牧歌的な稽古会で、僕はまったく訳のわからない感じで甲野先生に崩されました。そこで知り合ったボクサーと医者の三人で「これはなんだ?」と言いながら中華を食べて帰ってきたのですが、常識的な動きの外側は確実に存在するのだと嬉しくなりました(ちなみに僕もボクサーも二十歳くらいで、すでに開業医だったそのお医者さんが奢ってくれた)。

 常識的な動きの外側の話はまたにして、「健康体操」に話を戻すと、今では僕も合気道や武術の稽古は健康体操だと言えます。ただ、健康の概念がすこし違って、自分の身体と周囲の人、環境が調和していくような健康です。血行が良くなるとかコリがほぐれるとか、そういう狭義の健康ではなく。
 もう先生は亡くなっているので、「僕が間違っていました、すみませんでした」と伝えることはできないのですが、あのとき「何言ってんだ?」と脳裏に焼き付く言葉を頂いて、ようやくその有り難みも意味も分かるようになってきて、僕は本当に間抜けだなと思います。

術の世界に踏み入って
甲野善紀
学研パブリッシング