西海岸旅行記2014夏(33):6月15日:リトル・トーキョー、エリソン・ショージ・オニヅカ


 1986年1月28日、過塩素酸アンモニウムとアルミニウムが生み出す莫大なエネルギーが轟音を立てた。補助ロケットの強大な推進力で空へまっすぐ登っていくのはスペースシャトル「チャレンジャー」だ。国の威信なんて得体の知れないものが掛かっていて、後にリチャード・ファインマンが批判しまくったように開発の内情はそれほどブリリアントでもなかったのかもしれない。でも、これは人類の1つの到達点ではあった。僕達の祖先は土と石と木と水だけでテクノロジー始めた。そこからスペースシャトルに到達したのはすでに奇跡だ。
 感慨が胸を高鳴らせドキドキするのは、残念ながら73秒間の短い時間に限られる。
 73秒後、「チャレンジャー」は空中分解し、乗っていた7名の宇宙飛行士は全員亡くなった。
 空中分解の後なんとかしようと操作した形跡があり、何名かの宇宙飛行士達は、時速300キロで海面に叩き付けられる瞬間まで生きていたのではないかとも言われている。 

 リトル・トーキョーを歩いていて突然現れたスペースシャトルの像に、なんだろうと近づいてみると宇宙飛行士エリソン・ショージ・オニヅカ(鬼塚 承次)の記念碑だった。
 実は、僕はこのときまで「チャレンジャー」に日本人が乗っていたなんて知らなかった。知らなかったというのは、かなり奇妙だが知らなかった。僕は「チャレンジャー」乗組員の写真をこれまでに何度か目にしているはずだし、ニュースだって何度か聞いているはずだ。すっかり忘れていたのだろうか。「チャレンジャー」の事故は、シャトル計画上の悲劇で、ファインマンが事故調査委員会でOリングの欠陥を見抜いたということしか印象に残っていなかった。僕は写真を見ても、ニュースを聞いても何も見てはいなかった。

 ショージ・オニヅカは1946年にハワイで生まれた日系人で、コロンビア大学で航空宇宙工学を専攻。空軍の訓練も受けて少尉になっている。空軍エンジニアとして働きながら1978年のスペースシャトル計画第一期飛行士候補へ応募。
 1985年に「ディスカバリー」搭乗。
 1986年、「チャレンジャー」搭乗で殉職。39歳だった。

 ショージ・オニヅカの殉職は悲劇だが、それでも彼の記念碑には力があった。何か腹の底に力が湧き上がる。ショージ・オニヅカという宇宙飛行士のことがこんなに気になったのは、彼が日系人だからだろうか。僕は日本人なんだなと思う。
 あまりこういうことは認めなくないけれど、やはり日本にルーツのあるものは気になる。このリトル・トーキョーだってそうだ。ちょっとインチキくさいけれど、僕のある部分はここへ来て完全にリラックスして嬉しいと思っている。特に昨日はハリウッドで勝手に疎外感を感じていたので、その落差もあるだろう。

 記念碑の近くの建物一階には、「マルカイ」という日本のスーパーが入っていた。ビッキーが「見たい?」と聞くので、見たいと行って中へ入る。中は、トレーダー・ジョーズやホールフーズなどのアメリカ的な一応内装も気を使っているスーパーとは違ってゴチャゴチャして身も蓋もない。まさに日本のスーパーだ。大根もタケノコの里もなんでも、大抵のものは置いてある。これはいい。もしもアメリカに住むことがあれば、結局はこういうスーパーの近くに住んでしまうかもしれない。
 この頃から、「アメリカに別にそんなに住みたくないかもしれない」と思っていたのだけど、もうすこし掘り下げると、僕は全般的に「ある文化圏に紛れ込んだ異文化」というものが好きなだけなのかもしれない。たとえば日本にいるときにアメリカ文化が良く見えたのは、それが「日本にあるアメリカ」だからで、リトル・トーキョーが素敵に見えるのは、それが「アメリカにある日本」だからなのかもしれない。

 そういえば、僕は京都にずっと住んでいるけれど、普段はほとんど関西弁、あるいは京都弁を使わない。それは単に関西弁が嫌いで、標準語みたいにベタベタしていない言葉が好きだからだと思っていた。ところが、はじめて東京へ行った時に自分の口から「好んで」関西弁が出てくるのに気付いてびっくりした。
 僕は標準語が好きなわけでも、関西弁が嫌いなわけでもなく、ただ「周囲の人と異なる言葉使いをしたい」というだけだったのだ。そんなことで周囲との差異を取ろうとしていたのだろうか。自分がそんな詰まらない人間であることにがっかりすると共に、異分子に惹かれる傾向は無視できないとも思った。それは常に「今ここ」ではないものを求めるという病理にも似ている。

困ります、ファインマンさん (岩波現代文庫)
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