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西海岸旅行記2014夏(30):6月13日:フレズノー、ショッピングモール、失速の大量消費社会

 フレズノーが小さな街だと行っても、モーテルから車で10分以内に行けるモールは何個かあった。どれに行ったのか覚えていない。今ざっとグーグルマップで検索してみたけれど、思ったよりたくさんあるのと、写真もどれも似たり寄ったりなのでこれという確信が持てない。たぶん、"Fashion Fair Mall"へ行ったのだと思う。

 はじめてやって来たアメリカのモールは思ったよりも小さかった。
 もちろん僕達が行ったモールが小さかっただけだ。ミネソタにある"Mall of America"みたいに、遊園地まで内包している巨大なモールだってアメリカにはある。けれど、そういう巨大なモールはスペシャルなもので、そんなにどこにでもあるわけじゃない。他の街でもいくつかのモールに行ったけれど、どれもそんなに大きなものではなかった。
 これは、僕達が日本にいてもモールに慣れているからだと思う。
 過去の遺産に依存していて、景観規制もあって、なんとなく新しい活気に欠ける京都の僕の家からでも、車で簡単に行ける距離にイオンモールが2つあって、3つ目がまもなくオープンする。イオンモールはアメリカのその辺のモールより大きいし充実している。すこし足を伸ばせば、滋賀にも大阪にも神戸にもデカいモールがたくさんある。もう僕達はすっかりモールのある世界に慣れ親しんでいる。

 昨今の「意識の高い」人々の潮流に反して、僕はモール大好き宣言を行っている。店をバーっと一箇所に集めておいてくれるのは本当に便利だ。暑い夏だろうが、寒い冬だろうが、嵐だろうがなんだろうが、モールの中に入ってしまえばこっちのもので、買い物から食事から映画まで済んでしまう。
 もちろん、モールに出店するような店は大衆受けを狙った下らない店かもしれない。スーパークールな服は売っていないかもしれない。こだわりのカバンも売っていないかもしれない。どこのモールにも同じ店が入っていて、個性的な商品は手に入らないかもしれない。世界中が同じようなモールで埋め尽くされて、みんなが同じような商品で暮らしているなんて退屈で不気味かもしれない。
 でも、もうそれでいい。

 それでいいと思っていたのが、今回のアメリカ旅行で少し考え直した。基本的な意見は変わらないけれど、もう少し考えることがあるなと、うらぶれたアメリカのモールで思った。
 モールだけではない。
 僕の好きなアメリカのドラマに"CHUCK"という作品がある。主人公の働いている家電量販店が劇中では"BUY MORE"という名前で、これはアメリカに実在する家電量販店"BEST BUY"をモデルにしている。"BEST BUY"のイメージカラーが青で、"BUY MORE"は緑、"BEST BUY"の出張サポートが"Geek Squad(オタク部隊)"で、"BUY MORE"のは"Nerd Herd(オタクの群れ)"、となっている他は、ロゴデザインの方針も店のレイアウトもそっくりだ。
 なので、僕は"BEST BUY"を見に行った。
 そして品数の少なさにがっかりした。

 "BEST BUY"は、"BUY MORE"のモデルである以前に、世界最大の家電量販店だ。だけど、売っている商品の数は多くない。それほど巨大でもない店内に、すっきりと商品が陳列されているので、見やすいけれど品数が少ない。ヨドバシカメラの10分の1も商品がない。バラエティーがない。この中からしか選べないという閉塞感を店内のスッキリした雰囲気がブーストする。スッキリが殺伐に変わる。
 この殺伐さはどこかで見たなと思ったら、「コストコ」だ。
 コストコが日本にできてきたとき、巨大なアメリカンサイズの倉庫みたいな店だというので、期待を込めて行ってみたら品数が少なくてがっかりした。それ以来一度も行っていない。店が大きいのは品数が多いからではなく、各商品がそれぞれたくさん置いてあるからにすぎない。それに「大量にまとめ買いするから安い」ようにも見えなかった。大量に買うから値段の感覚が普段とズレるだけに見えた。
 そういうことを言っていたら、コストコ大好きなアメリカ人に「違うよ、コストコは安いとかじゃないし、厳選した良い物を取り揃えていて、良い物を普通の値段で買えるんだよ」と言われたのだが、そうであろうがどうであろうが詰まらない店だと思う。思えばこの頃から消費社会の大先輩、アメリカの消費が本当に「楽しい」ものなのかどうか疑問を持っていた。

 サステイナブルとか、心が荒むとか、そういうことは一旦のけておいて、大量消費という意味合いだけにおいて理想的な大量消費社会というものを考えてみよう。たぶん、こうなるのではないだろうか。

「商品の種類が、ペットボトルのジュースを決めるだけでも一生迷うくらいにたくさんあって、かつ、その無限種類の商品が毎日のようにマイナーチェンジされて、かつ、毎日のように新商品が発表されて、かつ、それらの品物がどこの店でも全部取り揃えられていて、かつ、全ての商品が安い」

 消費者は消費行動だけで一生を終えるけれど、それでも十分ハッピーで楽しいと思えるような、選ぶ喜びを喚起する商品ばかり。使って嬉しい商品ばかり。
 言うまでもなくこれは狂った社会だが、消費社会には消費社会なりの極があったはずだ。
 この観点からすると、アメリカの消費社会はすでに衰退し始めている。消費者の選択肢はどんどんと狭くなっている。大きな店に実はそんなに色々なものは売られていない。街にはたくさんのモールがあってショッピング天国みたいにみえるけれど、実はどこのモールにも同じ店が入っていて、しかも各モールに入っている違う店で同じ商品が売っている。
 なんて息苦しさだ。全部見せかけだけの多様性。本当は選択肢なんてない。

 日本でも今同じことが起きている。乱立するモールや商業施設には同じ店が入っている。こっちのモールにも隣の駅ビルにもユニクロが入っている。売られているものは同じで、店も同じ、ただ入っている大きな建物が違うだけ。息苦しい。どこにも行かないこの感覚。

 が、僕はモール大好き宣言をしている。
 息苦しいとか書いたくせにモール大好き宣言をしている。
 なぜなら、この息苦しさはあくまでも「消費行動」という枠組み内での話だからだ。消費の外には無限の選択肢が、当然今も昔も未来にも広がっている。消費行動に割くコストなんて、もうそんなもんでいいじゃないか。イオンモールで買った服でいいじゃないか。知る人ぞ知る小さなオシャレなセレクトショップを、路地歩きまわって探して法外な値段でコート買わなくてもいいじゃないか。そんなことで1日を使うのなら、近所のイオンモールで安い服買って、ついでに本屋で群論の本でも買って学べばいいじゃないか。たった20歳の若さで決闘して死んだ天才数学者の考えを巡る1日はけして息苦しくなんてない。

ガロアの群論―方程式はなぜ解けなかったのか (ブルーバックス)
講談社