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西海岸旅行記2014夏(29):6月13日:フレズノー、旅行者モードの魅力について

西海岸旅行記

 フレズノーのベストウエスタンに着いたのは、多分夕方の5時とか6時とかそれくらいの時間だった。日が傾いた気だるい小さな街のモーテル。外のプールではまだ子供たちがはしゃいでいる。こんな早い時間に投宿するのは久しぶりのことだ。ヨセミテの炎天下で疲れたのと、この街には大したものはないだろうということで、部屋でゆっくりすることにした。
 とはいっても、洗濯物が溜まっていたので洗濯をしなくてはならない。コインランドリーは車で10分ほどの距離にいくつかあったが、そこまで行って洗濯と乾燥が終わるのを待つのも億劫だった。洗面台で石鹸を使って洗うことにする。旅先の洗面台で洗濯をするのが、実は僕は結構好きだ。上手く「こなしている」という感じがするし、何より旅行をしている実感が湧いてくる。それから、普段より服の扱いが乱暴になるのがいい。気に入っている服を、普段なら伸びてヨレヨレにならないよう水で重くなった分も考慮して丁寧に干したりするのに、旅先の洗面所洗濯ではギューっと力任せに絞ったりする。伸びようがヨレヨレになろうが仕方がない。旅の途上なのだから、細かいことは仕方がない。

 こういう風に、「旅行者モード」に入るのが僕は好きだ。
 「あるものでなんとかする」という姿勢。
 「多少のことは気にしない」という姿勢。
 普段なら、ちょっとダラシなくて恥ずかしいし出歩けない、という格好でも外に出れる。だって旅行中だし仕方ない。
 普段なら、けしてクシャクシャにしたくない服でも、丸めて枕の代わりに使える。旅行中だし仕方ない。
 多分、旅行の楽しさの半分は「遠くへ行くこと」にではなく、「不便になること」にあるのではないかと思う。不便をなんとか工夫すること。たとえば狭い飛行機の中でいかに快適に楽しく過ごそうかと考えてみたり。限りある荷物は何にしようかと悩んだり。人間というのは野放図な便利さよりも、多少の不便さを求めるものかもしれない。

 不便というのは、言い換えれば制限されるということだけど、人間には「多少の不便さを求める」どころか、「圧倒的な制限」を求めるところがあるようにも思う。
 それは多くの映画に如実に表れている。
 たとえばこういう感じだ。
 主人公達はなんらかの事情で”悪の組織”に狙われる。恋人とか肉親とか、親しい人も攫われて助けに行かなくてはならない。警察には訳ありで頼めない。悪の組織の一員を見付けた主人公。こいつを追えば恋人の閉じ込められているところまで行けるかもしれない。悪の組織の一員は車に乗って去っていく。主人公には車がない。しかしそこへ通りかかる一台の車が。前へ飛び出して無理矢理車を止める主人公。「オイ、てめえ死にたいのか!」怒鳴りつける運転手。に主人公すかさず拳銃突き付けて「降りろ、車は借りる、悪いが緊急なんだ」。

 もう主人公は追い詰められているので「仕方ない」。
 みんな本当はワイルドなことも横暴なことも無茶苦茶なことも色々したいけれど、普段は社会的な理由、人道的な理由で我慢していることが色々ある。それが悪の組織に狙われたり、国家の安全を守るために動いている最中だったりしたら「仕方ない」ということになって「許される」。追い詰められて選択肢を極限まで制限されて、そのときにはじめて発動するものがある。そこで立ち上がるものに僕達は憧れを持っていて、だから映画を見たりするのではないだろうか。たった40秒で支度して持てるものだけ持って、暮らしてた家を捨ててあの子を救うために冒険の旅に出るのだ。明日は知らぬ、どこ吹く風。

 本当は、制限されて追い詰められなくても、同じ選択はいつでもできる。

 ロープを部屋の中に張り巡らせて、洗濯物を干した後、シャワーを浴びて今度は本当に少し休んだ。
 シャワーを浴びるとさっぱりして何処かへ出かけたい気持ちになる。
 内陸部の、アメリカの小さな街で、夕方にちょっと出掛けたいとなると行き先は一つしかない。
 そう、ショッピングモールだ。

旅に出ろ!―ヴァガボンディング・ガイド
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