貴船と仮名遣い:01

 もう7年も昔、2007年のブログに僕はこのようなことを書いています。
( http://blog.goo.ne.jp/sombrero-records/e/18350d30b1e0ad5f5a56276a2e3fd29b )

《 そういえばこのところ豆塚の話を書いていませんが、しばらく忘れていました。
  だけど、その過程ではじめて読んだ「貴船の物語」は頭から離れません。
  表現が大袈裟でとてもきれいだと思います。僕だけかもしれませんが、マルケスの「100年の孤独」を思い出します。
  以前にも書いたように、僕が読んだのは貴船神社の高井和大さんという方の現代語訳で、これは貴船神社のサイトで全文を読むことができます。
  少しだけ、ここに書かれたものを現代小説風にリライトしてみようとしたのですが、完全な現代の日本語を使うと雰囲気が出せなくてうまく行きそうにありません。  》
   
 7年というのは結構な長さです。ガルシア・マルケスは亡くなり、博士課程に入ったばかりだった僕もアカデミックからすっかり遠くへ来てしまいました。そして不思議なことに最近、世界というまったくやってくれる複雑系のランダムネスに乗っかり、「貴船の物語」を現代語訳された貴船神社の高井和大宮司から一冊の著書を頂きました。
 「歴史的仮名遣ひのすすめ」というタイトルの書籍で、初版が平成元年、神社本庁研修所が発行したものです。ISBNは付いていないので、一般書店では売っていないと思いますが、「神社・神道専門書店 BOOKS鎮守の杜」( https://secure.jinja.co.jp/books/ycBBS/Board.cgi/002/db/ycDB_book2-pc-detail2.html?mode:view=1&view:oid=1810 )から買うことができます。
 また内容の一部を神社新報のサイトで読むこともできます( http://www.jinja.co.jp/kana-kantan01.html )。

 僕が7年前にやってみようと思ってできなかったことは、現代語訳の「もっと現代語訳」、ひいてはリライトです。高井宮司の現代語訳はすでに素晴らしいもので、実際僕はそれを読んで感動したので、リライトなんてする必要はないのですが、「ロミオとジュリエット」が「ウエスト・サイド・ストーリー」になったように、「貴船の物語」ももう少し遠くまで行くことができると思ったのです。これは、そういう射程の長い物語です。

 今でも書けるとは思いませんが、当時の僕はすぐに物語のエッセンスと手触りを残したままリライトするのは無理だと思いました。どうしたって、大切な何かが血液のように指の間を溢れてしまいます。溢れるというのでは、表現が甘いかもしれません。僕はその肉体を全く掴むことができなかった。どうにかリーチできるのは骨格だけで、筋肉にも内蔵にも、全然触ることができなかったのです。

 元の文章がどのような手触りか、ここで少し引用させて頂きます。
 (「貴船の物語」全文は、貴船神社のサイト http://kifunejinja.jp/literature.html で読むことができます。)

《 これをお聞きになった中将殿は、「いないというなら別のこと、いると聞いたからにはたとえ鬼の娘であろうとも、逢わずにおかれるものか」とお思いになった。せめて夢でも見てみようかと、まどろんではみたが、夢を御覧になることもない。神仏に祈請すれば逢うことができるかもしれないと、まず氏神の春日大明神に十七日お籠りになり、さらに長谷の観音に参られて十七日お籠りされた。すると、観音の霊夢があって、 「これより帰って鞍馬の毘沙門にお頼みなさい」 》

 せめて夢でも見てみようと眠るのは、なんだか素敵ですね。
 どうしてこの話を書き直そうとしたとき、話の肉感を再現することができないのか、当時の僕も少しは考えてみました。
 最初は、全体を一貫して流れる敬々しさが、軽快さを好む現代的文体には翻訳できないだけだ思っていました。しかし、もちろん、事はもっと複雑です。

 室町時代お伽草子である「貴船の物語」は、随所、昔話の話法で書かれているように見えます。
 口伝伝承、昔話を専門とするドイツ文学者、小澤俊夫によれば、昔話には独自の話法があり、その最たるものは「昔話は極端に語るが、リアルには語らない」というものです。昔話では手が取れたり、足が取れたり、それらが再びくっついたりということも珍しくありませんが、血が出て痛くてノタ打ち回るというような細かい描写はありません。たとえば、秋田県の昔話「蛇女房」では、女房に化けた蛇がミルク代わりに舐めさせるため、目玉を取り出して自分の子供に与えますが、どうやって取り出したのかとか、取り出してどうなったのかとか、そういった描写は一切ありません。ただ女はきれいな玉をくれて、その玉を舐めると子供はスクスク育つ。それだけです。

 昔話が、リアルに説明せず簡潔な表現で済ませていたのには、口伝で細かいことは覚えられなかったとか、紙が貴重で書くところがなかったとか、現実的な理由があったのかもしれません。でも、結果的にはディテールを省いたシンプルな表現が、物語に独自のテンポと美しさを与えています。「貴船の物語」の中でも、背丈が16丈(約50メートル)、顔が8つ、角が808個、目が16個と、8の倍数でリズム良く極端に描写された鬼に人が食べられたりしますが、細かく生々しい描写があるわけではありません。

 現代小説というのは、基本的にはリアリズムが主体となっています。日常から乖離しない範囲で、現実味のある範囲で物語を作り、現実味を増すためにディテールを慎重に書き込みます。それを「貴船の物語」や、あるいは他の昔話に適用することはかなり難しく、余程上手くしない限りは元の物語を殺してしまいます。現実味のある範囲に収めるには、物語のせっかくの美しさである「大袈裟な表現」は削らねばなりません。さらに現実味あるディテールを書き込むことで、シンプル故に成立していた美しさも消えてしまいます。つまり「貴船の物語」は現代小説の手法には収まらない。
 さて困ったと、物語の書き換えは頓挫してしまいました。

 書き換えの方はとにかく、「貴船の物語」自体はプリントアウトをファイルに入れてずっと持っていました。僕は一つのクリアファイルにあれもこれも入れてしまう癖があるのですが、あれもこれも入っている故に、そのファイル自体は肌身離さず持ち歩き、毎日中身を引っ掻き回す羽目になります。その結果、いつの間にかホチキスで止めていた「貴船の物語」から、一番上のページ「まへがき」が失われていました。「まあ、物語の本文は残っているからいいか」と、失われた前書きのことを長い間忘れていたのですが、実はそこにはすこぶる重要なことが書かれていたのです。

 歴史的仮名遣いと、現代仮名遣いのことが書かれていました。
 仮名遣いのことなんて、僕達は普段全然気にも留めません。現代仮名遣いは、僕達現代人にとっては完全に自然なもので、そこに疑問の余地はありません。でも、実は現代仮名遣いは「自然」でもなければ、「新しいから優れている」わけでもないようです。
 「貴船の物語」前書きから、仮名遣いに触れた部分を引用させて頂きましょう。

《 なほ、私は、戦後間もない混乱期に十分な研究もせずに強引に改革された、「現代仮名遣い」に大いなる不満を持つてゐる。それは「仮名遣ひは発音通り簡単に」という単なる便宜主義だけの発想で、文の法則を無視して改革されたところに問題を感じてをり、伝統的な仮名遣ひの復興を常々願つて「歴史的仮名遣ひ」を今も尊重してゐる。しかし、このおとぎ話は、少年少女にも読んでもらひたいといふ願望もあり、吾意に反して残念だけれども、本文は「現代仮名遣い」で表記した。 》

 この文章は、物語の単なる前書きとして、「早く本文を読みたい!」と急いた気分で読めば、思わず内容を読み溢してしまいます。しかし、一歩足を止めて読めば、かなり気になることが書かれているのです。
 「戦後間もない混乱期に十分な研究もせずに強引に改革」
 「文の法則を無視して改革」
 言うまでもなく、改革された仮名遣いは僕達が毎日使っているものです。それが「強引に、文の法則を無視して」改革されたものとは、一体どういうことだろうか。

旧かなづかひで書く日本語 (幻冬舎新書)
萩野貞樹
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