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西海岸旅行記2014夏(15):6月8日:ポートランド、豊かなスーパーマーケット

西海岸旅行記

 今夜テキサスへ戻るソルティは、飛行機の時間があるので僕達より先に店を出て行った。僕とクミコも少ししてから店を出た。ウエスト・バーンサイド通りまで歩くと、かの有名な書店「パウエルズ」の看板が見えて、そこには「営業中」のサインが出ている。なんだ。さっきここを通りがかったとき、一見すると如何にも営業していないように見えたので休みなのかと思ったのだが、どうやら外側を工事しているだけで営業はしているようだった。

 ソルティによれば「ジュンク堂とかの方が大きいし、別に普通の本屋」ということだったけれど、一度入って確かめたかった。大体が僕はかなり本屋が好きなタイプの人間だし、なんといっても店は今目の前にあるのだ。そうして入ったパウエルズだったが、クミコの蕁麻疹が再発して来たのでいそいそと後にする。どうせ明日はエースホテルに泊まるのだから、また見に来ればいい。

 宿というか、ケリーの家へ戻る前にスーパーにだけ寄りたいとクミコが言うので、近くにあったホールフーズへ入った。ホールフーズはアメリカの大きな自然食品スーパーマーケットチェーンで、先程ソルティの帰っていったテキサス州オースティンを発祥とする店だ。
 アメリカですごいなと思うのは、スーパーマーケットだった。選択肢がとても豊富で、ここは豊かな国だと実感する。そして自然食に強いスーパーマーケットでは「本当にこのどれもがオーガニックなのか?」と思うくらい沢山のオーガニック食品が手に入る。

 僕は子供の頃、「汚い気がして給食を食べるのが非常に苦痛」という程度に潔癖症だった。その片鱗は今でも残っていて、パン屋やスーパーのお惣菜コーナーで食べ物を買うときには一種の割り切りが必要だ。「もしかしたらこのエビ天の前で誰かが咳とかクシャミをしてここにはその人の唾液が付着しているかもしれない、いや、おしゃべりな人が居て喋っただけでも唾は飛ぶし、もしかしたら子供が触ったかもしれないしその子供はさっきまで公園の砂場で猫のウンコとか投げてたかもしれないし鼻をほじってたかもしれない、誰かが頭をかいてその人のフケが降りかかったかもしれない、あー、無理だこれは食べれない、けれどそんなこと言ってたら生きていくのは大変だしなんかダサい気もするし、細かいことは気にしないようにしよう、冷静に考えてみれば誰かの体液とか排泄物とか何か汚いものがここに付着している可能性はそんなには高くないはずだし、付いていても微量だし、そんな微量の誰かの体液は普段からいつのまにか口に入っているものなのだ、だから風邪が伝染るわけで、僕達哺乳類の社会というのはそういうものなんだ、免疫系もあるからよもや誰かの何かが口に入ったとしても大丈夫だ自分の免疫を信じればいい、ここにたまたま誰かの何かが付着していてそれが免疫を打ち負かして病をもたらす可能性はほとんどゼロだ、いやそういう問題じゃない、人の唾液の付いたものを口に入れるのがなんか嫌だというそれだけの感覚的なものなんだ感染症とかそういうことじゃない、でも口って自分の”中”か本当に、トポロジー的には”外”だ、一休宗純だって酒は私の中を通って出て行くだけですとか言って酒飲んでたじゃないか、それに世の色々な生き物を見てみれば犬だって地面に落ちたエサ食べてるし哺乳類の食べるという行為はそういうものなのだ、よし買う」
 そうしてようやくエビ天をトングで取り上げてパックに入れることができるのだけど、アメリカでは基本的にあらゆるお惣菜に透明のプラスチックの蓋が付いているのでそこまで考える必要がない。
 お惣菜の種類も、色々な味付けのオリーブが並んでるオリーブバーから大きなクッキーまで豊富にある。こういうのは僕みたいに潔癖で料理の嫌いな人間にはありがたい。

 ホールフーズを出て、手近な駅でMAXに乗りウィラメッテ川を渡ってサウスイースト・ポートランドへ戻った。ノース・イースト82番通りの暗くなってきた寂しい車しか通らないバス停でバスを待ちながら、途中のバス停で一度下りてドラッグストアへ寄るか、それともそのままケリーの家までダイレクトに行くか考える。ドラッグストアへ行くのは、もしかしたら蕁麻疹に効く薬が売っているかもしれないと思ったからだけど、特に調べもしないで「そんな都合いい薬売ってないよね」という判断をして、疲れもあって早く帰りたかったのでドラッグストアには寄らないことにした。
 この判断は、数時間後に大間違いだったと判明する。
 ネットで少し調べると、アレルギー用の抗ヒスタミン飲み薬は蕁麻疹に絶大な効果があるとのことで、さらにそういった薬は薬局に普通に売っているようだった。この時ドラッグストアに寄るのを怠った為に、クミコはもう一晩蕁麻疹に苦しむこととなってしまった。

 家に着くと、今日はケリーが居て1階に下りてきてくれた。写真で見るよりもずっと若くてキレイな女の子だった。ピアスと全身に入っているタトゥーが如何にもポートランドの若者っぽい。
「はじめまして、お世話になっています。今日は携帯まで取りに行ってもらって」
「そんなのなんてことないの車で10分のことだし、忘れないうちに渡しておくわね」
 ケリーの手には、今日の昼間から行方不明になっていた黒のノキアが確かにあった。状況は把握していたけれど、知らない街でいつの間にかなくなったものが、こうして泊めてくれている人の家で戻ってくるのは魔法みたいな気がした。
「本当にありがとう。本当に助かりました。」

 彼女は翌朝7時から仕事だということで、僕達はほんの短い時間話をしただけだった。ケリーは日本が好きで、「行きたい国は、それはもちろん沢山あるわ、でも、行きたいじゃなくて、絶対にどうしても行かなくてはならない国は日本だけなの、AirBnBで貰ったお金は全部日本旅行の資金として貯金してるのよ」と言った。僕達の払ったお金が彼女の日本旅行の足しになるというのは悪くない話だ。僕達がアメリカに泊まったお金で、彼女が日本に泊まる。それは新しい形態の物々交換みたいで小気味良い。

もの食う人びと (角川文庫)
辺見 庸
角川書店