物語における時間軸方向の振動

 僕が子供の頃、「マンガは絵がついているから駄目で、字の本を読むと場面を想像するから想像力がついて良い」という言説がまかり通っていました。
 今もその片鱗はあると思いますし、部分的には真実なのかもしれません。

 しかし、「字の本を読むと場面を想像する」というのは間違いなのではないかと思っています。
 僕たちが小説や物語を読んでいるときに起こっていることは、「文章で説明された場面をイメージに置き換える」というような作業ではないと思うのです。

 僕はいわゆる「本好きの子供」だったので、よく本を読んでいました。土曜日の夜に本を持ってベッドに入る時が一番幸せ、という感じです。
 暗い部屋の中、スタンドの灯りに柔らかく照らされた文章がどこかの世界へ僕たちを放り込んでくれるわけですが、あるとき「その世界とはどこか?」ということを考えてみました。

 「どこか?」というより、「何か?」ということかも知れません。
 物語を読んでいるとき、僕たちの中では一体なにが起きているのでしょうか。
 最初は素直に「イメージしてる」と思っていたのですが、「読書している自分を観察」すると、どうやら事はそんなに単純ではありません。
 自分が読書している状況を注意して観察するのは、とても難しいことです。「読書している自分」に意識が向いた瞬間、「読書の世界」からは締め出されてしまうので、「読書」という状態は破れてしまいます。

 ちょうど、観測すると破れてしまう量子状態のように。

 なんてチンケな比喩を使うつもりはありません。
 比喩というのは、物事をより分かりやすくする為に使うものなので、一般的な事象を使わないと意味がないからです。
 開かれた文章中の比喩で量子力学を持ち出すのは、たぶん多くの人には意味がわからないかもしれないけれど、僕はあなた達の知らない量子力学を知っているんです、エヘン、という自慢がしたいときに限られるわけですが、僕はそういうことはあまり好みません。

 だから、僕はけしてそんな品のない比喩の使い方はしません。
 いや、それとも「既にした」のでしょうか。
 本文中には、既にその比喩が書かれているので、僕は比喩を使ったと言われるかもしれません。でも、僕はその表現を「そんなことはしない」と言う為に記述したので、やっぱり「そんなことしてない」はずです。ちゃんと比喩を記述した後にそれを「取り消し」しているわけです。

 けれど、そんな取り消しは無効だというのが本当のところでしょうか。
 例えば、人をぶん殴っておいて「というようなことは僕はけしてしないんだ」と言ったって、殴られた方では既に痛いし怪我だってしています。取り消しの文句がいくつ並べられたって、怪我は治りません。それと同様に、取り消しの言葉がいくつ並んだところで、既に書かれた言葉は既に読まれています。

 困難で不正確な自己観察ですが、「読書」には、このような「取り消し」に近い不自然さが存在しているようにみえました。
 少し、例を引いて見てみましょう。


 「わが友よ」
 彼は涙をふりはらって、おごそかに石の肝臓を指した。
                          』

 坂口安吾の「肝臓先生」にある一文です。
 短いですし、この文が特別だから挙げたわけでもありません。小説なら大抵はどの小説のどのページでも同じような構造が見受けられます。

 この場面には、2人の人間「私」と「彼」が登場しています。
 僕たちは文章を前から順に読んで行くので、最初に頭へ入ってくる情報は、

 「わが友よ」

 というセリフです。
 が、ここまで読んだ時点では誰がどのようにこのセリフを口にしたのかは分かりません。
 ちなみに、この場面の直前は「彼」が涙を流し、「私」が驚くというもので、来るセリフ「わが友よ」がどちらのものであるかを示唆する記述はありません。直後に書かれている「彼は涙をふりはらって、」を読んではじめて、誰がどのように言ったのか分かります。

 それでは、「わが友よ」を読んだ瞬間、僕たちが頭に「イメージ」しているものは何でしょうか。誰が言っているのかも分からない純粋なセリフだけを、まるでチェシャ猫の笑いのようにイメージすることは可能でしょうか。それとも、量子力学シュレディンガー猫のように、「彼」が発話している状態と、「私」が発話している状態の重ねあわせ状態をイメージしているのでしょうか。おっと。

 無論、それは極々短い、一瞬のことです。ほぼ同時かもしれません。もしかしたら文章を前から順に読んでいるというのは間違いで、結構ジグザグと読んでいるのかもしれません。
 それでも、いずれにせよ僕たちは情報を一つづつであろうが、複数づつであろうが、断片的に頭に入力していくので、どこも欠けていないイメージを頭に描く為には「情報が揃うまで入ってきた情報を保留する」か「勝手に想像して後で遡及的に訂正する」必要があります。

 情報が揃っているのかチェックする時も、勝手な想像を訂正するときも、僕たちの頭の中に立ち上がっているのは通常の3次元空間的イメージ、つまり「場面」ではありません。
 先に「取り消し」の気持ち悪さについて言及しましたが、取り消しと置き換えが細かく起こっている高周波の「読書空間」としか呼びようのないものが、頭の中に立ち上がっているはずです。
 これはやっぱり非常に気持ちの悪い空間だと思うのですが、その気持ち悪さを安々と飛び越えて、読書というものが、物語というものが成立しているのが不思議でなりません。