ストレスは”貯まる”のか。

「抑圧が駄目とも限らないんじゃない?」みたいな会話が聞こえてきて、抑圧という言葉について考えました。
 僕達が何かを我慢しているとき、それはしばしば「欲求を抑圧」というような表現が用いられます。そこには漢字が指し示す通り、何かをギュ〜と抑えつけて圧力がこもったようなイメージがあります。まるで、空気をギューッとボンベにでも詰めたように、あるいはバネを押し縮めたかのように。
 そういう「何かを圧縮した」イメージは、僕達の心に窮屈さと不安定さをもたらします。無理矢理空気を詰め込み過ぎたボンベがいつか爆発してしまうように、何かを我慢して抑圧することが重なると、それがいつか爆発しておかしくなってしまうのではないか、というように。

 しかし、そもそもが、これは喩え話に過ぎません。僕達が何かを我慢することと、気体やバネをギューッと押さえつけることは全く別の話です。
 どうして「欲求の我慢」を抑圧という「ギュ〜と押し縮める」描像で表現するようになったのかは知りませんが、僕達の心が別に気体でもバネでもないということに留意することは重要だと思います。何かを我慢したからといって、それが「破裂」する心配も、「膨らもうと沸き上がってくる力」を感じ必要も、本当はないはずです。何かを我慢したときは、端的に、ただそれを我慢しただけのことです。

 似たような言葉の使い方に、「ストレスが”貯まる”」というものがあります。
 長い間ストレスに晒されると、本当に体を壊したりするので、このアナロジーに当っている点がないとはいいませんが、ストレスというものを「貯まる」から「発散」するというイメージで捉えるのは実はとても変なことだと思います。ストレスって貯まるんですか? なんというか、そういうバクっとした言葉で、直面している「嫌さ」を表現して良いのでしょうか。本当は「毎日、気の合わない上司に会うのが嫌」なのに、それを「ストレスが貯まる」という風に表現して、「ストレス発散」というこれもバクっとした方法で解決しようとしていいのでしょうか? 本当はその上司のいる会社を辞めるとか、あるいは汚い作戦を立ててその人が首になるように仕向けるでもなんでもいいですが、本当は具体的な問題に対する特定の具体的な解決方法を考えるべきではないでしょうか。なんでもかんでも「ストレス」に読み替え、数ある「ストレス発散」の中から何かをチョイスして実行したところで、その実効性は疑わしいものです。カラオケで熱唱しようが、海外旅行へいこうが、飲もうが食べようが、明日からもその上司に会い続けることには変わりありません。

 このような、「答えたくない質問に答えたフリをするためにちょっと話をずらす」のに似た言葉使いを、僕達は日常生活でかなり使っていて、同時にかなり縛られているように思います。