堀江貴文さんのこと


 昨日、堀江貴文さんのサイン会に行ってきました。

 「堀江貴文さんのサイン会に行って握手してもらった」というと、ちょっとびっくりされますが、僕は昔から堀江さんのブログや本をずっと読んでいました。

 最初に堀江さんのことが気になったのは、昔書いていらした「社長日記」というブログを読んでのことだと思います。どうしてそのブログを読むようになったのかは忘れましたが、当時同じ研究室を使っていた友達と夜中に読んでは話をしていました。

 僕が今年の春くらいから、たまに言及している「ベーシック・インカム」というアイデアも、最初は堀江さんのブログで知ったのだと思います。2009年か2010年頃、堀江さんは結構たくさんベーシック・インカムについて話されていたと思います。
 そういえば、ブログに長い間ベーシック・インカムのことを書いていませんが、ずっと「名前考えなきゃな」って言いながら半年以上やってきた僕達のグループは今も健在で、年明けの1月にはスイスでプレゼンを行うことも決定しています(残念ながら僕は行けないのですが)。

 冗談のように作りはじめた”ベーシック・インカム・ゲーム”も、日本語版と英語版でのきちんとした製品が間もなく上がる予定です。
 全員が他のことで忙しいのと、色々と足を取られることもあり、なかなかスピードのでない今年の活動となりましたが、エンジンも温まり、メンバーの個性が化学反応を起こし始めたので、来年はビュンビュン動いて世界を変えたいと思います。

 ちょうど昨日は、堀江さんサイン会のすぐ後にベーシック・インカム・ゲームの英訳ミーティングがあったので、サインを書いて頂いているときにベーシック・インカムのことを少しだけ話しました。最近あまりベーシック・インカムのことを話されませんが、ずっと考えは変わっていないし、ただ話す機会がないだけだということで、最後に「機会があれば」と言って頂きました。

 実は、サイン会に行ったことは自分でも驚きでした。
 僕は、どんなに好きな人のサイン会でも「サイン会」とか「握手会」みたいなミーハーなイベントには行かないと思っていたからです。実際に一度も行ったことはありません。
 ところが、一昨日の夜、Twitterで「明日京都で堀江貴文のサイン会がある」という情報を見つけて、居ても立ってもいられない気分になり、サイン会を実施する書店のサイトを確認しました。サイトには「電話予約可能」と書いてあって、営業時間を見れば閉店まであと数分。即座に電話を掛けて予約を取りました。
 行くことを考えたこともないサイン会に、むしろそんなのに絶対行かないと思っていたサイン会に、躊躇いなく一瞬で行くことにして予約までしてしまったテンションに自分で驚きました。

 僕にとって堀江貴文という人はそんなにも大きな人だったわけです。
 このサイン会は、堀江さんの新しい本「ゼロ」のプロモーションとして行われたものですが、「分かってもらおうとなんてしない、誤解する方が悪い」というこれまでのスタンスをやめて、丁寧に書かれたこの本は、僕としてもたくさんの人に読んで貰えるといいなと思います。(これまでの書籍も丁寧だったと思いますけれど)

 本の中から、一部引用して終わりたいと思います。


 考えてみればおかしなものだ。
 塀の中に閉じ込められ、自由を奪われた僕が、塀の外で自由を謳歌しているはずの一般読者から、仕事や人生の相談を受けていたのだから。
 そして思う。
「みんな塀の中にいるわけでもないのに、どうしてそんな不自由を選ぶんだ?」

 刑務所生活で得た気づき、それは「自由とは、心の問題なのだ」ということである。
 塀の中にいても、僕は自由だった。外に出ることはもちろん、女の子と遊ぶことも、お酒を飲むことも、消灯時間を選ぶことさえれきなかったが、僕の頭の中、つまり思考にまでは誰も手を出すことはできなかった。
 だから僕は、ひたすら考えた。自分のこと、仕事のこと、生きるということ、そして出所後のプラン。思考に没頭している限り、僕は自由だったのだ。

 あなたはいま、自由を実感できているだろうか。
 得体の知れない息苦しさに悩まされていないだろうか。
 自分にはなにもできない、どうせ自分はこんなもんだ、この年齢ではもう遅い。
 もしもそんな不自由さを感じているとしたら、それは時代や環境のせいではなく、ただ思考が停止しているだけである。あなたは考えることをやめ、「できっこない」と心のフタを閉じているから、自由を実感できないのだ。
 思考に手錠をかけることはできない。
 そして人は考えることをやめたとき、後ろ手を回され鍵をかけられる。そう、思考が硬直化したオヤジの完成だ。彼らはもはや考えることができない。考える力を失ってしまったからこそ、カネや権力に執着する。そこで得られるちっぽけな自由にしがみつこうとする。彼らオヤジたちに足りないのは、若さではなく「考える力」、また考えようとする意思そのものなのだ。
 僕はオヤジになりたくない。
 年齢を重ねることが怖いのではなく、思考停止になること、そして自由を奪われることが嫌なのだ。だから僕はかんがえることをやめないし、働くことをやめない。立ち止まって楽を選んだ瞬間、僕は「堀江貴文」でなくなってしまうだろう。  
                            』
 

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