ニワトリを殺して食べたこと


 これまでの人生で、意図的に生き物を殺して食べことは2回しかない。一度目は、もう十数年前の事。魚を釣って、その場で殺して焼いて食べた。
 そして2度目は昨日。殺したのはニワトリだ。昨日僕はニワトリを殺して食べた。

 食べ物、特に「肉」のことを気にしはじめたのは、もう7,8年前のことになると思います。2008年の一時期はベジタリアンでしたが、基本的にはぼんやりと気にしていただけです。

 その長い長い、漠然とした「気になるけれど」の期間を経て、この夏は、すこし具体的に見たり体験したりしました。

 8月には、屠殺ワークショップ「O:NIKU Station」( http://onikustation.blogspot.jp/ )の桂さんに声を掛けて頂いて、「ちはるの森」( http://chiharuh.jp/ )のちはるさん達と加古川市食肉センターで牛の屠殺を見学しました。加古川食肉センターでは、牛を殺すところから解体して肉にするところまでの全てを見学することができます。

 昨日のニワトリの屠殺は、僕の同居人が参加している「大見新村プロジェクト」( http://oomivillage.tumblr.com/ )に、桂さんの屠殺ワークショップが呼ばれた形で行われました。
 「肉」のことを気にするようになってから、動物を殺して食べるたくさんのイベント、ワークショップの情報は耳にしましたが、どうにも出向く気がしない、それどころか反感を感じて一度も行きませんでした。

 今回、ようやく重い腰を上げて、反感もなく参加したのは、桂さんの人柄によるところが大きい。桂さんとは、もう半年以上ベーシック・インカムの勉強会などを一緒にやっていて、色々話を聞かせてもらったりする中で、彼のワークショップなら行こうと思うようになりました。
 加えて、昨今の農業や狩猟、ひいては食、環境に関する議論とアクティビティの活発化が僕に影響を与えていることは確かだとも思います。数年前は、自分の周囲に農業をしている友達も、狩猟免許を持っている友達もほとんどいませんでしたが、最近ではそう珍しくもなくなりました。

 それでは、昨日僕が思ったことを書きたいと思います。
 主催者の桂さんも、会場のsocial kitchen( http://hanareproject.net/ 大見村は大雨の影響で通行止めの為場所変更)も良く知っているし、うちの同居人から3名も参加するので、会場へ着いてワークショップがはじまるまでは実に気楽な気分でした。
 気持ちが重たくなったのは、庭のケージに入れられていた3匹のニワトリを見てからです。そうだ、今日はピクニックじゃない。晴れやかな日曜の朝にみんなで集まって、僕達がまずすることはこの鳥達を殺すことだ。

 これまでニワトリをかわいいと思ったことはあまりなかった。僕は鳥が大好きで、スズメもカラスもクロエリセイタカシギも大好きだけど、でもニワトリとハトはあまり好きではなかった。
 ただ、この朝見たニワトリは随分あいらしかった。
 本当に、このまま物事を進めてよいのだろうかと、頭のどこかが、講師である桂さんの話を聞きながら考え始める。早くも頭の中に相反する意見を持った2人の自分が立ち上がる。ここ何年もすぐこの状態になってしまって人に上手く自分の意見を伝えることができない。人に伝えることができないだけではなく、自分でも自分が一体どのポジションにいるのか良く分からない。

 「みんなでワークショップを進めて、それできちんと何かを体験するのがいいんだ」という自分と、「オーガナイズの苦労も人間関係も集まっている人の都合も、もうどうだっていいから、理念も思想も理屈もどうでもいいから、全部ぶっ壊れても、今、目の前で奪われようとしている3つの命を救え」という自分の間で足が地につかない。

 だから、桂さんが最初のニワトリを取り上げて、喉のどの部分にどのように包丁を入れるのか説明したあと、「誰かやってみますか?」と言っても反応することができなかった。
 僕だけではなく、そこにいる誰もが黙ったままで、最初の一匹は桂さんがやってみせてくれた。

 小さな祈りの時間。
 バタバタしないように、羽を紐で縛ったあと、ニワトリの体を右膝で地面に抑えつけて、左手で顔を押さえ、喉に包丁を入れる。まるで自分がどういう状況にあるのか何も分かってないかのように、ニワトリは静かで、その首からは鮮血がいともあっさりと流れ始めた。

 左手はそのまま頭を持ち、右手は包丁を置き、ニワトリの脚をつかんで持ち上げ、血が抜けるのをしばらく待つ。ここへ来てニワトリは抵抗を見せた。
 瞼が閉じられ、お尻に動きがなくなるのを確認してから、血の抜けたニワトリを、羽を毟りやすくするため、大鍋のお湯に浸ける。

 この後、羽を毟り解体します。
 過程で、生まれる寸前の卵など普段は見ないような部分を見たり、目にはしていたものの実体を良く分かっていなかった物を見たり、解体のノウハウも教わり、それはそれで貴重な体験と知識でした。
 でも、死んだ後、僕はもうこれを食材としてほとんど完全に割り切っていて、ここから先は純粋な調理の話だと言って差し支えないと思います。牛の屠殺を見た時もそうだった。殺したあとは、もう心が傷まない。あとはただの作業に見える。

 残る2匹のうち、1匹を、僕は殺した。
 一息にと思っていたけれど、すこし躊躇いがあって、刃先を深くすべらせることができず一度鳥がバタバタした。それを見て、躊躇いは余計に苦しめると刃を進める。

 放血が始まり、頭と脚を持って持ち上げる。頭を下にしすぎたせいで左手を血が伝い落ちる。弱い抵抗がどんどん弱まり、彼女の命は僕の手の中で消えていった。
 
 この間、僕はほとんど何も感じなかった。
 かわいそうだと感情が芽生えるよりも、ちゃんと絶命と血が抜けたことを確認しなくては、という理性が完全に優位にあって、僕はただ作業をしている状態でした。
 刃がニワトリの首に深く入って血が流れた瞬間、感情はどこかに押しやられてしまったように思います。このとき僕は、鹿などを捕っている友人が「殺す時はかわいそうだと思うけれど、ナイフを入れて肉を見た瞬間からはもう普通の食材にしか見えなくなる」と言っていた意味が分かりました。

 もっともっと高いと思っていたハードルが、思っていたよりもずっと低かったというか、実は倒しても全く問題なかったのが分かったような気分になって、同時に少し恐ろしい気分にもなります。

 牛の屠殺を見た帰り、友達に「僕は戦争へ行ったら平気で人を殺すかもしれない」ということを言いました。
 屠場で、次々殺されていく牛を見て、僕はほとんど可哀想だと思わなかったのです。一対一で向きあって、濃密な関係性の中で「殺す」と言われれば絶対に可愛そうだと思うはずなのに、そこでは僕はただ殺され行く牛を淡々と見ているだけでした。
 そこでは、牛を殺すというのも「まあそういうもの」で、システムは洗練され完成していました。その場に入ると、僕もまあそういうものだろうという気分になってしまう部分があります。だから、普段絶対に戦争なんて嫌だし、人殺しなんて嫌だと思っていても、戦場へ出てみれば心はあっさりと変わってしまうのかもしれないなと思いました。

 ニワトリを殺した時の、この意外なハードルの低さ、やってみたら意外となんともない、ということからも、同じようなことを感じます。
 僕が普段想定している、あるいは信じてしまっている自分と現実は、思っているよりも遥かに脆い。

 先に、自分が2人に分裂していると書きましたが、ここでその2つのスタンスを書いておきたいと思います。
 1つは、「ニワトリを絞めて食べるのは意外に簡単だから、みんなが普通にもっと行えば良いな、それが自然な社会かもしれない」というものです。
 もう1つは、「ニワトリを絞めて食べるのは意外に簡単だから、今はそれが表面的な隠蔽にすぎないとしても、動物を殺すことから離れようとしていた社会が、何かちょっとしたことで元の動物を殺す社会に戻ってしまうかもしれない、それは嫌だ」という立場です。

 別の言い方をすると、1つは「昔の暮らしを自然だから善良と見做す」、もう1つは「自然を越えた生き方がより善良かもしれない」という立場です。

 どこの国の映像だったかは忘れましたが、トルコかどこかの国で町を彷徨っていた犬がとっ捕まえられて、そのままゴミ収集車に放り込まれるのをyoutubeで見たことがあります。犬はもう弱っていて、それでゴミ収集車のプレス機の中におとなしく消えていきました。彼は画面から消えた直後にきっと強烈な苦痛と絶望を味わったはずですが、町の人にはそんなこと関係ないのかもしれません。邪魔なヨボヨボの犬が町を歩いているから、空き缶でも捨てるみたいにゴミ収集車にそれを放り込む。別にそんなもんでしょ、高々犬じゃん。という感覚を、僕達は環境次第では持ち得る。それはニワトリを殺しても別段なんともないことから類推できる。
 というか、僕達は1年間に犬と猫を20万頭だか30万頭も殺処分する社会に、今現に生きています。「飼うの難しくなったら、保健所に引き取ってもらって殺してもらう、犬なんてそんなもんでしょ別に、殺処分ゼロにしたいとかいう人は現実見てない頭がお花畑なお馬鹿さんw」

 僕は「文化」という言葉があまり好きではありません。それは文化という言葉には実体がなく、ほとんどの使用方法は「誰かの利益を主張する言い訳」だからです。
 「これは日本の文化だから守らねばならないので助成金下さい」「私たちはこういうことをしていて、おかしいおかしいと言われますが、これは文化なので放っておいてください」

 文化なんて糞食らえと思います。
 利益は主張すればいいし、守りたいものは守ればいい、でも、それを「文化」という得体のしれない呼び名の下で行うのは本当にファックです。
 だから、僕は動物を殺して食べることを「文化」だという言い方で肯定する言説の全てを聞く気になりません。

 たとえば、世界を見れば一部の地域に、女の子の赤ん坊が生まれるとクリトリスを切除する「文化」があります、それは苦痛なだけではなく命も奪いますが「文化」なので仕方ないですね。
 日本にも、かつて「気にいった女の人をさらって来てレイプするのが結婚」という「文化」がありました。もう廃れていると思いますが、廃れていたら大事な「文化」を復活させたほうがいいでしょうか。

 文化なんてウンコだといいながら、実は文化という言葉は便利で必要な言葉かもしれないとも、同時に思います。常に頭の中に相反する2人がいるというのはとても面倒です。
 面倒なので、いつも適当なところにラインを引いてカットしているのですが、ここはもう一段階書いてしまいます。
 
 どうして文化がウンコではないのかというと、たぶん僕達は数々の慣習の中で、「ある特定の団体の利益になっているもの」を文化と呼んでいるからです。
 ちょうど、微生物の繁殖という意味合いでは全く同じ現象なのに、人間にとって毒性のあるものを「腐敗」、有益なものを「発酵」と呼ぶようなものです。
 そのような「文化」の利益享受者は、必ずしも発話者自身ではありません。「何々はあの国の文化だから」という文脈で、誰か他の団体の利益を考慮する際にも文化という言葉は便利です。「文化」という単語とそれに付随する概念のおかげで、僕達はある団体の持つ慣習を「悪習」と「文化」に別けることができます。その分け方は、こちらの都合なので、やはりそこには問題があって「文化」はやはりシットかもしれませんが、話が終わらないのでこれはここまでにします。

 僕達はもしかしたら、姑息なやり方でだったかもしれないけれど、動物を殺さない世界を構築する過程にあったのかもしれなくて、今の社会にはその姑息さに対する反動としての回帰運動があり、その回帰は、ニワトリをあっさり殺せたように、思ったよりもずっと簡単に起こるもので、そこに現れるリアルはやはり喜ばしい。昨日僕は庭に数羽のニワトリが飼われていて、普段は卵を頂き、たまに肉を頂くという生活は素敵だなと素直に思いました。しかし、もしかしたら真の意味でイマジナルな理想を追い求め、動物が全然殺されない世界を作り、その世界おける、新しいリアルとハピネスを追求することだって、やっぱりありなのかもしれない。でも、それは大地を離れた生き方でもあり、僕達の肉体が有機体で構成されていて自然との融和性が高いことから、どうあったって無理な話かもしれないし、原理的に大地から離れた場所で得られる幸福を幸福と呼ぶことはできないのかもしれない。
 このどっちつかずな状態を、昨日の体験はより加速しました。