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プラトンのロバ

 論理的なロバの話があります。
 そのロバは理想的な意味合いで論理的です。すべての動作を完全にロジックに従って行うわけです。
 このロバの左右等距離に、全く同じエサを置いたらどうなるかという話なのですが、お話ではロバは餓死してしまうことになっています。哀れなロバは論理的に決定できないことは決定することができず、どちらも選べないでじっとしたまま死んでしまうわけです。
 どちらでも良かったのに!!!

 このロバを救うには、最初、外乱を与えてやれば良いと思っていました。
 風が吹いて微かに右向きの力を感じただけでも、ロバは右のエサを取りに動き出すはずです。
 そして、幸いなことに、僕達の世界はノイズに満ちています。
 だから、本当の世界にはノイズがあるからこういうことにはならないだろう、と思っていたのですが、もしも本当の世界にこのロバがいたのであれば、たぶん外乱なんかがなくても、彼は死なないのだろうなと思うようになりました。

 どうしてかというと、本物の肉体を持ったロバは「飢える」からです。
 飢えという肉体的な要求が、彼を論理の外へ突き動かすことになる。
 これは、肉体という「実在」が、論理という虚構を突き破る瞬間かもしれません。
 論理を虚構と呼ぶのは、それがあくまで人間の作り上げたものに過ぎないからです、確かにそれは道具として一定の機能を持っています。でも、道具は道具にすぎないし、それをどんなに洗練させても、その先にあるのは道具にすぎない。

 僕は、実はとても長い間、肉体や物質を、僕達がダイレクトに体験しているこの世界を虚構だと考えていました。その背後に隠れている「真理」をサイエンスの手法でいつか知りたいと思っていました。
 今も、その欲求は消えていません。サイエンスの手法で世界のもっと深い部分を見てみたいと思っています。あるいは哲学的な思考の積み上げがどこまで遠くに僕達を誘ってくれるのか、それも知りたいと思っています。
 だけど、今はもうそれらを「真理」であるとは考えていません。
 それらは、ある特定の手法で構築した、ある特定のモデルでしかないし、真理というものはこの世界のどこにもなく、あるいは今僕が体験しているこの現象それ自身だけが真理かもしれないと考えています。いや、この書き方にはかなりの語弊があって、僕はたぶんもう真理という言葉の使用をやめるべきでしょう。

 今から振り返ると、ちょっとゾッとするような暗さですが、主に20代の僕の世界感というのは、以下に説明するようなものでした。
 まず、僕は10代の終わり頃に「クオリア」という概念を、当時まだ無名だった茂木健一郎さんの本で知り、結構ガツンとヤラれてしまいます。クオリアというのは「赤色の赤さのリアリティ」みたいなもので、今もしも目の前に赤いものがあるとするなら、その赤いという、見ていらっしゃるその赤さそのもののことです。

 ここで、少し客観的に、その赤さについて考えてみましょう。
 僕達が「赤い色を見ている」というのは、僕達の「目に赤い光が入射している」ということです。光は、電磁波のうち人間に見える波長のもののことで、赤なら大体波長700ナノメートル前後の電磁波です。それが、例えば目の前に赤いリンゴがあるのであれば、リンゴの方から飛んできて目に入ります。

 太陽に照らされたリンゴが目の前に置かれている、という状況を想定して、もう一度整理してみます。
 太陽から地上に到達する電磁波の大部分は、赤外線、可視光線、紫外線で構成されています。つまり人間が見ることのできる波長とその周辺です。それら多様な波長の電磁波のうち、波長700ナノメート前後の電磁波がリンゴの表面で反射されます。他の周波数の電磁波はリンゴに吸収されて熱エネルギーに変換されリンゴが温まったりします。
 波長700ナノの電磁波が大気中をほぼ光速で進行して、僕達の目に飛び込みます。角膜、水晶体を通過して網膜の視細胞に到達した電磁波は、細胞にエネルギーを与えて電気的な信号を誘起します。その電気的な信号は網膜上の水平細胞、双極細胞など数種の細胞からなる構造体で信号処理されて、その後視神経を通じ、ニューロンの電気的励起状態として脳の第一次視覚野に入っていきます。

 この後、脳でどのような処理が行われているのか、僕は知らないのですが、ここまでで、どこかに「赤っぽさ」みたいなものはあったでしょうか。ないんですよね。脳に入っていくのは単なる「電気信号」です。そんなもののどこをどういじったら「赤」になるのでしょうか。
 これは、数字からカレーライスを作るのと同じくらい、あるいはピアノの音でゾウを生み出すくらい、無理なことだと思います。

 でも、そんなどう考えても無理そうなことを、僕達は起きている間ずっと現に行っているわけです。だから、今パソコンの画面が見えています。さっきは視覚を例にあげましたが、別に聴覚だって味覚だって嗅覚だって、どの感覚をとっても同じことです。空気の振動と、あの頭の中に聞こえる確かな音と、関係ありませんよね。グルタミン酸ナトリウムという化学物質と、「うま味」ってどうやって変換できますか。どうにも不可能だとしか思えません。
 ひいては、そういう感覚の複合として僕達の意識は構成されているので、僕達の意識の存在自体が不可能だということになります。どうやってこの世界で意識が立ち上がりうるのでしょうか。

 だから、「なんだこれは・・・」という半ば放心した気分で、僕は10代の終わりから20代を過ごしていました。
 呪縛が解けたのは、もう30歳になってからのことです。
 その時、僕はまだ博士課程の物理学徒でした。ドイツで哲学をやっている友達が京都にロシア人の恋人と遊びに来て、「私ちょっと大学に用があるから、この人、日本語できないしほっとくの心配だから、しばらく面倒みてあげて、じゃあ」と消えてしまい、僕は友達の彼氏と二人で大学の近所をフラフラすることになりました。彼も哲学を学ぶ博士課程の学生で、話は自然にそういう話になります。

 聖護院から百万遍まで、東大路のうるさい自動車音の中歩きながら話したことを今でも良く覚えています。
 僕がさっき書いたようなことを話すと、彼は「だから科学者は駄目なんだよ、あのさ、その電磁波とか電気とか、そういうモノの見方と、今実際に見えているこの景色と、聞いている音と、どっちが先にあった。こっちでしょ。電磁波の波長とかそういう概念は、こっちが先にあって、あとから組み立てたものじゃん。こっちが先、あっちはその派生。なのに、あっちを根本に据えて、こっちの意識が組み立てられそうにないから不思議だとか、完全に間違えた問題設定だよ」と言ったのです。

 僕達は昼間っからビールを飲んで散歩していたので、それは他愛のないおしゃべりのはずだったのですが、僕はガーンと衝撃を受けました。「なるほどね」とか平気な顔して、その後別の話をしていたと思いますが、確かに彼の言葉にやられてしまった。
 それから、段々と、西田幾多郎が何を言っていたのか分かるようになってきた気がしたり、身体や感覚というものを丁寧に扱うようになって来ました。