コーヒーとチョコレートとピースと奴隷

 僕がコーヒーを飲むようになったのは、30才を過ぎてからなので、だから、まだ3,4年というところです。
 昔、コーヒーを飲むと気持ち悪くなっていたので、僕にはコーヒーは飲めないと思っていました。30歳くらいのときに、思い切って飲んでみて、そしてもう気持ち悪くならないことが分かり、それからはコーヒーを良く飲みます。

 一人で本を読みながら、誰かと話をしながら、コーヒーを飲むというのは実に心地良いことです。
 飲み始めた当初、僕はコーヒーの豆から焙煎から淹れ方まで、それなりにこだわっていたのですが、元々食べ物の味にはそれほど興味もないので段々とバカらしくなってきて、311のあとそれは決定的になり、ついにインスタントコーヒーをメインに飲むようになりました。微細な味の違いなんか、もうどうでもいいし、そういう日々の些細な喜びよりも、もっと大きなものに目を向けなくてならないという焦燥感に駆られていたからです。豆をわざわざ挽いたり、時間を掛けてドリップしたりするのが完全な無駄だと、その時は思っていました。毎日を、AでもBでもどっちでもいいような微細な選択の連続で使い果たしてしまう消費者として飼い慣らされていることに、ほとほとウンザリしていました。
 「世界のことなんて考えなくていい、お前達は、どっちのブランドのコーヒー豆を買うかだけ考えて死んで行け(本当はどっちもほとんど同じ豆だけどね、ククク)。世界のことは俺たちが自由にさせてもらう。コーヒータイムで仮初に癒やされてまた働け」みたいな声を、どこかに聞いてしまうのです。

 さて、コーヒーとチョコレートは非常に良く合いますが、両方共モノカルチャー代表みたいな食べ物ですね。
 モノカルチャーというのは植民地政策の名残で、1つの国で、その国の住民を扱き使い、単一の作物を大量に生産することです。一国の経済事情が単一の作物の出来に左右され、さらに他の農産物がないので食料の自給もできません。食べ物を輸入に頼らざるを得ないわけですが、ただでさえ輸出している作物を安く買い叩かれているので十分な食べ物を輸入することはできません。カネというルートを通じてしか、食べ物が手に入らないように、つまり生きられないように制度化されています。だから、農園で働く人はカネを手に入れるために、扱き使われても黙って耐えるしかない。
 エチオピアとかコートジボワールとか様々な、所謂南側の国で、奴隷みたいに扱き使われた人々がそれを生産しています。奴隷みたいというか、実際に何十万人という数の子供が奴隷として働かされています。働かされていますというか、最終的な消費者、お客である僕達が働かせています。

 チョコレートを齧りながら、コーヒーを飲み談笑するという、なんともハッピーで穏やかな行為は、実はこういう奴隷の上に成立しているので、マクロに見ればハッピーでも穏やかでもなんでもありません。実に不幸で残酷な行為です。でも、ミクロに見れば、そこにいる人々の穏やかさにウソはなく、彼らには残酷さの欠片もなく、僕はそのマクロとミクロの落差にいつも呆然とします。
 いや、残酷さはそこに確かに存在しているのかもしれませんね。無知という残酷さが。

 ここで、僕達は2つのスタンスを選択することができます。
 1つは、こんな酷いことはやめる、というスタンス。
 もう1つは、これは先進国が勝ち取った特権だから、我々は貴族なんだから、奴隷のことなんて気にせずにコーヒーを謳歌する、というスタンスです。

 僕はどちらともつかず、曖昧なまま、やっぱり昨日も缶コーヒーを飲みました。この豆はどんな人がどんな状態で摘んだのだろうと思いながら、でもこともなく友達と話ながら飲み干しました。本当に酷い人間だと思います。
 1000年後に歴史を読んだ人々は、僕達のこの時代を暗黒の時代だと、きっと感じるのだろうと、この平和な物に溢れた国にありながらも、いつも思います。

 

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鶴見 済
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