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東京五輪がもたらす希望とは何か

 2020年のオリンピックが東京での開催になりました。オリンピックには全く興味がないのですが、今回はショックを受けています。
 IOCが東京での開催を発表する前日、Twitterにはオリンピック関連の発言が結構たくさん並んでいて、その中に「外資系証券会社で働いている友達が社内ではみんな東京って言ってるってさっき言ってた」というようなツイートがありました。
 証券会社で働いているとそういうことが本当に分かるのかどうか、僕は良く知りませんが、オリンピックに関する多くの発言が金の話に終始しているのを見ていると暗澹たる気分になります。現代ではスポーツは巨大産業なのだと思い知ります。

 少しだけスポーツの悪口を書きます。スポーツのというか、スポーツの扱いに対する悪口を。僕は子供の頃、「スポーツ選手っていいよね、君も大きくなったらスポーツ選手になりたい?」みたいなことを聞かれると、「スポーツなんて何の役にも立たないから興味ない、将来は科学者になる」と答えていました。

 そのように書くと、スポーツを全面的に否定しているようですが、当時から僕はサッカーが好きだったし、完全に否定するというわけではありません。
 ただ、それは単なる娯楽に過ぎないと思っていました。

 スポーツは「誰かが決めたルール内で行われる、ただの娯楽」です。確かに、そこから感動も生まれるし、希望も生まれる。中田英寿が引退した後に「サッカーで世界を変える」と言っていましたが、本気だったのだと思います。サッカーには強い力があると僕も思います。

 しかし、その力は人々の心に働くものです。
 ある力が、直接人々の「心にだけ」働きかける時、僕達は注意深くなる必要があります。そこには何かを隠蔽して見えなくする巧妙な嘘がしばしば潜んでいるからです。

 僕はそうは思っていませんが、百歩譲って2020年の東京五輪が東北地方の人々に「希望」を与えたとします。
 この「希望」は本物の希望でしょうか?

 もうすこし具体的に書きましょう。
 311のあと仮設住宅に住んでいるある少年が東京五輪に希望を見て、憧れの選手目指して柔道の練習に明け暮れるとします。
 ええ、彼には希望という名前の強いモチベーションが生まれているわけですが、かといってそれで仮設住まいが終わるわけではありません。仮設住宅で希望を持って練習に打ち込む姿、が美談として放映されたりする可能性はありますが、そんなものまやかしの希望です。この状況ではもともと「希望」という単語は「仮設を出る」意味で使われるものでした。それが「そのままでも頑張る」に摩り替わっているわけです。

 つまり、東京五輪が「希望」になるという言は、一体何を意味しているのかというと「状況は変わらないとしても、希望というものに後押しされて、より辛抱強くその生活に耐えることが可能になる」ということではないでしょうか。「フワッと夢見心地にさせて、一層我慢させる」ということではないでしょうか。
 
 同時に福島、東北の状況もきちんと改善される、という風には、僕にはとても思えません。
 今回、オリンピックが東京に決まり、「これで対外的なこともあるから、政府も本腰を入れて原発対応などに乗り出すに違いない。喜ばしいことだ」との発言も多々見られますが、本当にそうでしょうか。
 そんなのの、一体どこが良いのでしょうか。
 外面を気にしてようやく動くというのは、既に絶望的なことだと思います。そして見栄えだけを気にした方法は、本質的な過ちとなりやすい。

 プレゼンで安倍総理が「福島原発は問題ない」と断言した、というような記事を読んだので、実際にどういうことを言ったのか、プレゼンの様子をyoutubeで見てみました。
 安倍総理は「ニュースの見出しより現実を見てくれ」「原発はコントロール下にある」と確かに言っていました。前回の記事で「広告化社会では言葉はキレイ事になり、発言者も聞く方もウソだと分かっている」ということを書きましたが、一体いつからどんなウソを言っても大丈夫な社会になってしまったのでしょうか。