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広告化社会と演出化する消費者

Weblog
 先日、ファブラボ関連のイベントが横浜であったので、関東まで行ってきました。東京で電車に乗って街を眺めているとき、街中と車内の至る所に貼られている広告にイライラして「広告化社会」という言葉を思い付いたのですが、検索してみると既に1982年にその言葉をタイトルにした本が書かれているようです。
 その本に何が書かれているのか、僕の思う広告化社会と同じなのかどうか、は分かりませんが、広告化というのは既に使い古された概念なのかもしれません。

 僕の思う「広告化」というのは、人々が広告に長年晒されることによって物事を広告の文脈でしか捉えられなくなってしまうということです。僕達は恐ろしい程の数の広告を毎日毎日見ています。
 そしてその大半は軽薄な嘘と誇張で、言葉には何の真実味もありません。僕達はもはや「高級」と書かれていても高級ではないことを知っているし、「お得」と書かれていてもお得ではないことを知っているし、「流行」と書かれていても流行っているわけではないことを知っています。
 言葉には常に誰かの汚い欲望にドライブされたウラがあると、僕達はそのように考える悲しい習性を身につけてしまいました。「どうせ上手いこと言ってるだけだろ」

 考えるだけではなく、自分が話すときにそういう話法を踏襲するようにもなっています。ペラペラの合板と石膏ボードと壁紙と安い塗料で日本中の街がペラペラになってしまったように、僕達の言葉もペラペラ語られる広告コピーと嘘の政治演説とほぼ宣伝にすぎないメディアによってペラペラになってしまいました。
 言葉は死にかけています。
 これは全然大袈裟ではありません。
 ある集団の会話を聞いていて、この人達には知性がないと思うことがありますが、どうしてそのような印象を受けるのかというときっと彼らが自分達の会話をしているように見えて、実は広告のやりとりしかしていないからです。テレビや雑誌で見せられた広告を、あたかも何かの興味深い事象であるかのように語り合っているわけですが、実は広告の道具として使われているにすぎません。
 ちょうど、店で何か買うと、その店の宣伝の付いた紙袋を持たされることに、もう僕達が何の疑問も抱かなくなってしまったように、人々は自分が広告の一部として利用されていることに気付かないし、それどころか喜びを感じながら「広告の話をしたり」「広告の紙袋を持ち歩いたり」しています。
 喜んでいるならそれでいいじゃないか、という考え方も、ええ、あるんでしょうね。僕は与しませんが。

 与しない理由の1つは、その「喜び」の半分は欺瞞で、それについて人々は実は自覚的だからです。
 この記事のタイトル後半は「演出化する消費者」です。これは、消費者は本当は喜びを感じていないのに、あたかも自分が喜びを感じていたかのように演出する、ひいては自分に対してまで喜んでいたかのように演出する、つまり騙す、という意味です。
 加えて、この「演出(騙す)」までもが、すでに消費社会における供給側(資本側)の手の内にあります。

 演出化した消費者の具体的な行動は「カメラで動画や写真を撮って、編集加工して、気のきいたコメントを付けてネットに公開」という、つまり広告制作と全く同じ手順なのですが、「デジカメ」も「編集加工ソフト」も「ネット」も資本側が供給しているものです。
 つまり、現代の消費者は、”旅行に行く””新しい服買った”などの消費行動を、演出する(広告する)為に、演出ツールであるデジカメや編集ソフトを消費しています。無料の編集アプリであれば、広告を見せられながらそれを使い、広告を見せられながらFacebookにアップします。
 消費社会が怖いくらい順調に成熟した結果、社会は広告化して、広告化した人々が自発的に広告活動を行うようになり、その広告活動の為に更に消費をする、という状況になっています(”二重の消費”と呼ぶことにします)。

 二重の消費には、消費という言葉では済まされない問題が含まれています。広告が僕達の言葉をペラペラに骨抜きしてしまったように、二重の消費は僕達の行動を、生活そのものをペラペラに骨抜きしつつあります。
 旅先で見たどうってことない風景に、サクッとインスタグラムのフィルターでも掛けて「味のある写真」にして、あたかも素敵な所へ出掛けたように演出。
 つまんないパーティーなのに、Facebookにアップする写真を撮るからって急に満面の笑みとオモシロポーズで集合。

 僕は演出そのものを否定したいわけではありません。演出は滅茶苦茶素敵なスパイスだと思います。友達が編集してくれた旅の記録とかパーティーの記録とか、そういうものは僕も大好きだし、いつもとても有り難いと心の底から思います。けれど、やっぱりそれらはメインではないし、メインは旅でありパーティーであり、出来事そのものです。
 演出の背後には「楽しくハッピーでありたい」という僕達の根本的な欲求があるはずですが、それが「(事実はどうであろうと)楽しくハッピーだと見られたい」「(事実はどうであろうと)楽しかったと思いたい」という欲求にシフトしているように見えて仕方ないです。事実の方の、リアルな出来事に手を入れるのは大変だから演出で誤魔化すように。リアルな世界には、少なくとも若い世代の人間はほとんど全員が閉塞感を感じているのではないでしょうか。その閉塞感の半分はペラペラ化した社会に対してかもしれません。
 先日、横浜で友人と話していて、「そうなってはじめてインターネットがインターネットになるのかもしれない」と僕は言ったのですが、実はまだIT革命は始まったばかりです。IT革命は全然死語ではありません。はじまったばかりというか、ITは普及しましたが「革命」自体はまだ起こっていないと言えます。今のところ、ITは従来の消費社会をさらに拡張する道具として使われる流れが強いからです。ネットには広告が溢れかえり、広告化した個人が演出やアフィリエイトを垂れ流しています。つまりインターネットは広告化社会に取り込まれたままで、ペラペラです。

 僕達は確実に、歴史上、ある特異点にいます。たぶん消費社会の産んだペラペラさの極限にいます。これに対して、閉塞感や苛立ちを感じるのはきっと正常なことだし、それを演出という消費社会的手法で乗り越えることはできません。正面見据えて、面倒なことに取り組んで行くしかなくて、その為の小さな運動とそれらの連動が、世界の至る所で起こっているように思います。