書評:『死刑』 森達也

死刑 (角川文庫)
森達也
角川書店


 知らないことがたくさんある。
 もちろん、そんなことは常識だ。僕達はこの世界のことをほとんど何も知らない。知らなくても(たぶん)問題なく生きていけることも知っている。日々の糧を得るために会社にでも行き、決められた仕事をして帰り、給料で食べ物を買い家賃を払う。結婚して子供が生まれると、自立と家族を手に入れた一人前の人間だと社会的な認知を受けて、あとは特に疑問を抱かなくとも死ぬまで惰性で暮らせるだろう。僕達の社会ではそれを幸福と呼んでいる。

 もしも、知らずとも幸福に暮らし生涯を終えることが可能であるのなら、世界を知りたいという欲求は一体どこからやって来るのだろうか。

 多くを知れば知るほど、きっと日常生活は崩壊する。約束されていた幸福は彼方へ飛び去る。目の前に置かれた快楽を提供するはずの装置が、途端にガラクタに変化する。
 たしかにこれらは精巧にできていた。一部は本当に僕達の為に作られたものも混じっている。しかし、大半がただの作り物で、彼らの為に作られたものだった。まったく良くできた動物園だ。旭山動物園とでも名付けておこう。違う、人間園か。
 あそこで飼われているシロクマは「その習性に従ってガラス越しの人間をアザラシと勘違いして勢い良く跳びかかる」というショーを披露するらしい。食べ物を取るという動物としての本能を下らないショーに利用されている。窓越しに見えているのはアザラシではなく保護された人間達の頭部で、人間とクマを隔てる分厚いアクリルガラスは絶対に破れないことが計算済みだ。彼の爪は永遠に獲物に触れることなく、ただピエロを演じた見返りに人間からエサをもらって生き延びる。丁度、僕達がそうしているように。

 エサはエサだ。
 いつまでもそんなものばかり食べていられない。
 だから僕達は世界を知りたいと思う。
 分厚いアクリルに穴を穿つための道具を手にしたいと思う。

 前書きが長くなった。
 僕は自分がどうして『死刑』だなんて重々しいタイトルの本を読みたいと思ったのか、自分では良く分からない。どうして死刑なんて、如何にも重苦しいことを知りたいと思ったのだろうか。
 
「人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う」

 という副題がなければ手に取らなかったかもしれないし、森達也が書いたのでなければ読まなかったかもしれない。はっきりしていたのは、死刑というタイトルを見た時、自分が「そういえば死刑について何も知らない」と思ったことだ。

 「何も知らない」は自分が想像していた以上の「知らない」だった。

 まず、僕は死刑制度は比較的「常識的」なものとして世界に広く存在しているのだと思っていた。
 ところが現実に死刑のある国、死刑存置国は世界に58カ国で、国名を列挙すると

 アフガニスタン、アンティグアバーブーダ、バハマバーレーンバングラデシュ、バルバドス、ベラルーシベリーズボツワナ、チャド、中国、コモロコンゴ民主共和国キューバ、ドミニカ、エジプト、赤道ギニア、エチオピア、グアテマラ、ギニア、ガイアナ、インド、インドネシア、イラン、イラク、ジャマイカ、日本、ヨルダンクウェートレバノンレソトリビア、マレーシア、モンゴル、ナイジェリア、朝鮮民主主義人民共和国オマーンパキスタンパレスチナ自治政府、カタール、セントキッツネビス、セントルシア、セントビンセント・グレナディーンサウジアラビアシエラレオネシンガポールソマリアスーダン、シリア、台湾、タイ、トリニダード・トバゴウガンダアラブ首長国連邦、米国、ベトナム、イエメン、ジンバブエ

 となっている。
 (本の中でも存置国は列挙されているが、ここではhttp://homepage2.nifty.com/shihai/shiryou/abolitions&retentions.html から引用)

 
 正直なところ、僕はこのリストアップされた国名を見て強く驚いた。
 森さんも書いているように、別に他所の国は他所の国だし、日本に死刑を行う正当な理由があるのであればこのリストには何の意味もない。先進国がほとんどないことも気にしなくていいだろう。
 でも、もしも日本に強い正当な理由がないのであれば、僕達の住んでいるこの国は結構変わったポジションに立っていると言わざるを得ない。
 僕はこんなことすら知らなかったわけだ。
 僕にはヨーロッパ出身の友達も、ヨーロッパに住んでいる友達もいるけれど、死刑の話なんてそういえばしたことがなかった。目にする映画、ドラマ、物語はほとんど、先進国では珍しい死刑国、日本とアメリカのものだったので、死刑は普通に出てくる。だから僕はうっかりと死刑を極々一般的なものだと勘違いしていた。極々一般的だけど、自分とは何の関係もないシステムの一部だと。死刑があるとEUに加盟できないことも知らなかった。

 本書の中で森達也は様々な人間にインタビューを行なっている。途中からロジックが放棄され、「情緒」が柱に据えられる。「なんだそれ!?そんなことでいいのか」
と思われるかもしれない。
 本書に出てくる登場人物の全員と、森達也の「論理的な結論」は「死刑は存在する正当性がない」だ。でも僕達は「死刑よあれ」と思っている。
 死刑廃止論者達はずっとこの論理的な帰結を主張して来たが、人間というのはそれではどうやら動かないのだ。ならば、視点はやはり論理を超えて感情や情緒の世界へと移されるべきだろう。

 僕達がどの程度「死刑とあれ」と思っているのかというと、2004年の世論調査で「場合によっては死刑もやむを得ない」にイエスと答えた人は81.4%。設問が変わってしまうが1989年の「どんな場合でも死刑を廃止しようという意見にあなたは賛成ですか」に対するノーが66.5%。
 1989年からの15年で死刑支持者の割合は増加している。
 そして、それに呼応するかのように死刑執行が増えた。

 変な言い方だか、アメリカでですら死刑は減少傾向にあるという時期に、日本では死刑が増加していて、さらに言うのであれば、アメリカでは死刑の情報がオープンにされているのに対して日本では死刑の情報が隠されている。
 実は、国会議員で編まれた「死刑廃止を推進する議員連盟」というものが1994年に設立されているのだが、少なくとも本の出版された2008年においてこの議員連盟はサイトすら持っていない。もちろん、死刑賛成の国民が多い中でおおっぴらに活動しては票に関わるからだ。

 ここで立場を表明しておくと、僕はたぶん死刑存置なんじゃないかと思う。たぶん。本を一冊読んだところで答えの出せる問題ではない。

 本書における森達也の結論は、

「冤罪死刑囚はもちろん、絶対的な故殺犯であろうが、殺すことは嫌だ。
 多くを殺した人でも、やっぱり殺すことは嫌だ。
 反省した人でも反省していない人でも、殺すことは嫌だ。
 再犯を重ねる可能性がある人がいたとしても、それでも殺すことは嫌だ。

 結局それが結論かよと思う人はいるかもしれない。何とまあ幼稚で青臭いやつだとあきれる人もいるだろう。」

 正直なところ、結局それが結論かよ、と僕は思った。
 本文中での森さんの心の揺れを汲めばこれを本当に結論だと言っていいのかも良くわかない。

 自身の結論も明確には示さず、紹介した本の著者の出した結論にも「これは結論ではないのではないか」と言う、非常に曖昧な文章になったが、これ以上意見らしいものは僕には持てない。

 ただ、最後にこれまで知らなかったがこの本で知ったことを箇条書きにしておこうと思う。

 ・日本のメディアでは殺人事件の報道割合が他国のメディアに比べて突出して多い
  →日本人は殺人事件が好きなのかもしれない。

 ・明治大学博物館の色々な拷問器具が見れるコーナーは人気がある。
  →人間というのは残酷なことが好きなのかもしれない。

 ・今の死刑囚は他の死刑囚とコミュニケーションを取ることもなく、週2,3回30分の運動の時間すら1人で過ごす。運動場は10平方メートルから15平方メートルで、半分以上がなんと屋内。4畳半程の独房には窓があっても磨りガラスなので外が見えない。面会人がいない人も多い。つまり誰とも話をしない。死刑執行が言い渡されるのは朝食後で、言い渡されて大体1時間後に殺される。そんな状態で平均約8年間を過ごす。

 ・死刑の方法は絞首刑だが、確実に死ぬまで30分間吊るしておくのが慣例になっている。

 普通に暮らしているとまったく見えないこのような場所が、この日本にある。

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