書評:『企業的な社会、セラピー的な社会』小沢健二

 2009年に掲載していたものの再録です
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 昨日書いたように、小沢健二の「企業的な社会、セラピー的な社会」を買ったので、眠る前に読んでみました。面白かったです。

 冒頭の文章をネットで見つけたので貼り付けると

『「社会と何の関係もない言葉」きららという少女が、考えています。
このお話の頃の世界には、そんな言葉がたくさんありました。社会と、現実と、何の関係もない言葉。

例えば「対外援助」という言葉がありました。
いわゆる「豊かな」国が、税金で、いわゆる「貧しい」国に「援助」する、「対外援助」のお金。
本当は援助するのなら、貰ったお金を「貧しい」国がどう使おうと勝手なはずですが、そうではなくて、お金には「このお金を、こういう風に使いなさい」と、ただし書きがついていて、どうやらお金は、「豊かな」国の大きな企業が受けとることになっているのでした。
つまり「豊かな」国のA国の人びとが払った税金が、A国を出ることもなく、同じA国に本社を持つ大きな企業の銀行口座に流れて行きます。
お金を受けとった企業は、「貧しい」B国に、倉庫にゴミのように積んであった売れ残りの製品や買い手のつかない車を送りつけたり、B国の人たちが「建てないでくれ!」と涙を流して頼んでいる、大きなダムを建てて、村々をダムの底に沈めたりします。
そんなことがなぜか、もう五十年以上、「対外援助」と呼ばれているのでした。』



 登場人物は「うさぎ!」と同じで、焦点を

『社会の問題について人々が考え始めたら、こっそりとある枠組みを与えて、その中でだけ自由に活発に議論させて、本質には目が行かないように操作する』

 ということに当てている。

 たとえば、エコカーを作るのだって世界に1台車を増やすことに変わりないし、車を作るには資源が必要だし、タイヤから撒き散らされる微小なゴムのカスのことや、ひき殺される莫大な数の動物や、アスファルトで埋められてしまう地面のことは何も言わない。
 人々が本当に自由に考えると、車ってもしかしたらそんなにいらないんじゃないかとか考え出すので、そういうことじゃなくて燃費のいい車に乗り換えることだけに考えを集中させるように誘導して、そして燃費のいい車をどんどん売る。人々は燃費のいい車を買うことでなんとなく問題の解決に貢献しているような気分になる。

 ある社会問題を解決したいと思っても、好き勝手に行動されては困るのでNPOを作らせ「報告」を義務付ける。税金やキャッシュフローのことがあるので本当には自由に活動できないけれど、NPOのできる範囲で貢献することに満足を覚えて終わる。

 タイトルにもある「セラピー的な社会」というのは的確な言葉だ。
 ある人が社会生活に疲れてセラピーに行くと、セラピストはその人の内面的な問題をどうにかしようとする。本当は環境の方を変えなくちゃ本質的な解決にはならない。「周囲を変えることはできないから自分の考え方を変えましょう」ということを仄めかして丸め込む。嫌な暗い気分になったというのは「何かがおかしい」というシグナルなのに、それを無かったことにする。

 人々が本質を考えないように、本質には関係がないのに関係があるように見せかけた出口の無い問題を与えて、その中でエネルギーを使わせる。本当はとても具体的な目の前にある問題なのに「大昔からの難しい宗教問題」とか「脳科学」とか「遺伝子に組み込まれた人間の性質」とか、なんかぼんやりとして解決のできないように見える問題に摩り替えて、現実の世界を変えようなんて気にさせないようにする。
 革命が起きないように。
 人々が本質を考えないように。

 オザケンはそういうことを沢山の資料を引いて書いていた。

 ネットにはオザケンを批判する文章がたくさんあるけれど、とんでもなく見当ハズレなのは小沢健二が資本主義を否定していると思っている人々の意見で、別に彼はそんなことを全然言っていない。それどころが正しい競争が働いていない歪な状況を指摘している。それからハイテクを否定して原始に帰れと主張していると思い込んでいる人もいるんだけど、これも彼は全然そんなこと言ってなくて、むしろものすごいテクノロジーに期待すらしている。

『企業的な社会、セラピー的な社会』は普通には売られていないのですが、小沢健二さんの母親である、小沢牧子さんの著書『心の専門家はいらない』は、本書の内容に多大な影響を及ぼしています↓
「心の専門家」はいらない (新書y)
洋泉社