書評:『逃げる中高年、欲望のない若者たち』村上龍

逃げる中高年、欲望のない若者たち
ベストセラーズ

 以下は2010年に載せていたものですが再録します
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 村上龍さんの新しいエッセイが出たと @tatsu9393 さんのツイートで知りました。研究室からの帰りに本屋に寄ってチェックしてみると、文字が大きい上に印字スペースが狭く、さらに表紙の厚みが普通のハードカバーの倍あった。だから少ない原稿で無理矢理作った本にしか見えなかったし、それで1300円というのは読者というか書籍というもの全部を馬鹿にしているみたいにも思えた。でも、結局、僕はその本を買った。

 本のタイトルは「逃げる中高年、欲望のない若者たち」というものです。帯には「村上龍の挑発エッセイ」と書いてある。僕は今この本を半分ほど読んだところで、まだ全部は読んでいない。それでも今、その挑発だか何だかに乗って書くことがあります。

 村上龍という作家はたぶん僕の一番好きな作家です。たぶんと言葉を濁したのは、僕が村上龍の作品に対して感じる「好き」は単純な好きではないからです。性格の悪い、変態でグロい身も蓋もないことが書かれているので、僕はこれを手放しに「好き」だとは言えない。ただ、この作家の書くものには何かとんでもないものが含まれているということは分かるし、読みたい、と思う。「半島を出よ」という作品を読んだとき、僕はその凄まじさに圧倒されて、こんなに凄い小説を書いたら命が燃え尽きてしまうのではないかとすら思いました。ものすごいエネルギーがつぎ込まれているのをビリビリと感じた。

 それから、村上春樹という作家も好きだか嫌いだか良く分からないけれど、なんだか読んでしまう作家です。つまり好きなんだと思います。
 昔「あー、良太君のメール、なんかに似てるなと思ったら、村上春樹みたいだね」と言われてひどくショックを受けたことがあります。たぶん今も変わらず「読書の好きな男が文章を書くと村上春樹みたいになってしまう病」は蔓延していると思うけれど、僕は当時それを自覚していてどうやって抜け出そうかと画策していました。そういえば最近もまた言われてしまったので抜け出すにはまだ訓練が必要みたいです。

 柔らかめに書こうとすると村上春樹みたいになってしまい、硬めに書こうとすると村上龍みたいになってしまう。それは僕を捕らえる一つの檻です。しかし、同時に表現の道具でもありました。
 とにかく、僕が中身も確かめずに買う小説は2人の村上という名を持つ作家のものだけです。
 それでも今日は、老人達の肩を叩いて、世代交代を伝えたいと思うのです。

 村上春樹の「1Q84」を読んだとき、最初に僕が感じたのはなんと”老い”でした。どこがどう老いなのか具体的に分からないのですが、最初の数ページを読んで「あっ、僕は今、老人の書いた小説を読んでいる」とはっきり自覚したのです。
 言うまでもないことですが、別に老いた人の書いた小説だから悪いとかそういうことではありません。ただ、それはもうフレッシュな何かから随分遠くに来たのだということです。村上春樹は「グレート・ギャッツビー」の翻訳者後書きみたいなところで、確か「翻訳の賞味期限」について書いていました。今さら僕が翻訳なんてしなくても既に良い訳がいくつも出ている、ただ時代は変わるしそれらの翻訳はもう賞味期限が切れている、だから僕は新しい翻訳を出してみた、というようなことです。
 文章に賞味期限があるのならそれを紡ぐ作家にも賞味期限はあるのではないだろうか、そしてこの作家の賞味期限はそろそろかもしれない、と僕は1Q84を読んでいて思ったのです。新刊なのになんだかもう古いような気がしたのです。繰り返すようだけど、古いから悪いとかそういうことではなく、古いというのはただ遠いということです。源氏物語は紛れもなく素晴らしいけれど、でも21世紀の僕たちからは遠い、そういうことです。

 やっと村上龍のことですが、最近の小説「歌うクジラ」では老いを感じなかったものの、この「逃げる中高年、欲望のない若者たち」からは老いのようなものを感じました。老いというよりも、村上龍もある世代という枠の中で生きていて、それはもう引退しつつある人々の世代なのだと感じました。もう本当に僕達がしっかりしないといけないのだと思いました。

 たとえば「サイゼリヤの誘惑」という章があって、その中に、自分の番組にサイゼリヤの社長が出るから行ったことのないサイゼリヤに行ってみた、ということが書かれています。村上龍はまず「その安さとおいしさ」にびっくりして、それから生ハムにびっくりします。

(以下引用)
「もっと驚いたのは、パルマ産の生ハムが紛れもない本物だったことだ。中田英寿が現役でパルマに所属していたころ、わたしは何度も彼の地を訪れ、ミラノやピアチェンツァボローニャなどを含めて、かなりの量の生ハムを食べたが、サイゼリヤは、本場にまったく劣らない味だったのだ。(・・・中略・・・)モッツァレラチーズもまさしくバッファローの新鮮な本物で、本場イタリアの、たとえば高速道路のドライブインのものよりは品質がはるかに上だった。何でこんなにハイレベルの食材がファミレスにあるんだ、とつぶやきながら、わたしは満足してハムとチーズを味わった。
 ワインも本物で、フィレンツェで飲むキャンティのテイストが維持されていた。(・・・中略・・・)本場イタリアでも通用するような「本物」の味と茹で具合で、本当にびっくりした」
(引用終わり)

 サイゼリヤべた褒めです。
 その後、客はこんなにハイクオリティの食べ物がこんなに安く提供されているなんてどんなすごいことか分かっているのか、幼稚園児が普通にこんな本場のイタリアンを食べているのは不自然じゃないか、今は安くて高品質なものが手に入る、ユニクロの服を来てニトリの家具とヤマダ電機で買ったテレビのある部屋でマクドナルドを食べている生活は自分が学生の頃より数百倍快適だろうということを書き、その後、こう結んでいる。

(以下引用)
「だが、何かが失われるような気もする。それが、失われてもいいものなのか、それとも失われるとやばいものなのか、それはまだわからない」
(引用終わり)

 わからない?
 いや、分かると思うんだけどなあ。
 世代、という括り方は僕も嫌いだが、でもこういう文章を読んでいると世代という言葉を意識しないわけにはいかない。
 僕は今31歳だけど、その何かは”失われるとやばいものだ”ということは普通に分かっている。たぶん同世代のほとんどが分かっている。でも村上龍には分からない。僕たちはサイゼイリヤへは安いから行くことがあっても絶賛はしない。僕は2回サイゼリヤへ行ったことがあるけれど、別にそんなにおいしいわけでもないしレストランに必要な決定的なものが欠落していることは明白だ。
 僕たちは彼らには見えない大事なもののことも分かっているから、その大事な何かを失いはしないし、快適な生活も失いはしない。それらを踏み越えて更なる未来へと歩みを進めている。
 もう「本場」とか「本物」とかいちいち言わなくてもいい時代を僕たちは生きている。村上龍は「本場イタリア」とかそういうことをいちいち言わなくてはならない世代の人なのだ。

 海外旅行へ行きたがらない若者のことに言及しているけれど、けして「友達いっぱい」ではない僕の友達のうち10人以上は海外で暮らしている。旅行とかホームステイではなく、海外で研究したり働いたり専門的な勉強をしたりしている。今は日本に戻っている人たちを含めれば倍はいる。もういちいち「海外」とか大声で言わなくていいのだとみんな知っている。

「若者は外部に欲しいものを探さない、まるで死人」だと村上龍は言っているけれど、それは単に僕たち若者の欲しいものが老いた人間には理解できなくて見えないというだけのことだ。僕たちが「欲望のない若者たち」なのではなく、彼らが「欲望の見えない老人たち」なのだ。

 芸術の世界にも科学の世界にも職人の世界にも経営の世界にも、ありとあらゆる世界に尊敬すべき先輩達がたくさんいらっしゃる。けれど、僕たちはその人たちを越えて行く。彼らの作ってくれた豊かな世界に育まれたお陰で、当然のようにその上を行く。ピカソは天才的な芸術家だったけれど、今見たら「ふーん」で終わりだ。だって僕たちはピカソ自身がそうして作ってくれた新しい世界で呼吸して育ってきた新世代なのだから。大好きな奈良美智さんたちの世代も、悪いけど今越えて行く。天才科学者が一生掛けた発見も発明もググったらすぐに勉強できる。そして新しいものを作る。大好きな尊敬すべき先人たちが作ってくれたこの世界で、僕たちは巨人の肩に乗って、もっとずっと遠くの未来まで歩いて行く。僕たちが次の世代に乗り越えられるいつかまで、ずっと歩いてく、今。

逃げる中高年、欲望のない若者たち
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