書評:『評価経済社会』岡田斗司夫
評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている | |
岡田斗司夫 | |
ダイヤモンド社 |
「評価経済社会」というタイトルが目に入った時、だいたいの中身は予想できるような気がした。インターネットの普及と発展に伴い社会は「貨幣」を中心としたものから「評価」を中心としたものへと移行しつつある、というようなことが書かれているのだろうと。
日常的にネットを使っていれば、誰にでもそういうことは感じ取れる。たとえばアメリカのKickstarterや日本のCAMPFIREみたいなクラウドファンディングを利用すれば、「評価」さえ高ければ「貨幣」は以前よりもずっと簡単に集めることができるようになっているし、「評価」さえ一定以上あればTwitterを使って無銭旅行をすることもCouchSurfingを利用してよその国のよその家に泊めてもらうこともできる。
かつて地域社会が強度に存在していた頃、人々は地域の中で交換したり贈与したり、持ちつ持たれつの生活をしていました。物やサービスの移動は必ずしも「貨幣」を媒介していなかった。お裾分けにリンゴを貰ったからお返しにサラダ油を持って行こうというような場合にはお金は登場してきません。もちろん、人々が全くお金を使わないで生きていたわけではないけれど「貨幣」を媒介しないルートもたくさん存在していた。
その後、消費社会の発展に伴って、より多くの事が「貨幣」を媒介とするようになります。隣の家から醤油を借りてくる代わりにコンビニで醤油を買ってきて、悩み事の相談はカウンセラーにお金を払ってしてもらうことになった。同じ町内に冷蔵庫を余らせている人と買おうとしている人がいても、お互いに存在を知らないので、余らせている人は業者に頼んで捨ててもらい、買おうとしていた人は電気屋で買って来る、というあまりスマートでない状況が発生していました。
孤立した消費者達による社会は、ネットの発展と共にいくらか孤立を弱め、僕達は金銭を媒介しないルートを取り戻しつつあります。それも以前よりずっと広い範囲でのやり取りを可能とするルートをです。
そういうことが書かれているのだろうし、別に読むこともないか、と思っていたけれど、読み始めると面白くてそのまま読み終えてしまいました。
この本によれば、僕達は今「農耕革命、産業革命に次ぐ大変革としてのIT革命」を生きているということです。実にエキサイティングな。
こういう風にまとめてしまうと、これも今更本に書くようなことかという話だけど、パラダイムシフトのことを中心にざっと歴史の流れを説明する様は面白く読めます。
パラダイムというのは、ある時代特有の考え方の枠組みのようなもののことですが、パラダイムが異なる時代のことは(お互いに)バカにしかみえない、ということが本書には強めに書かれています。
狩猟採取時代の人々から見れば、農耕革命以後の中世人達は「土地と社会制度に縛られたかわいそうな人達」で、産業革命以後の近代人達は「自分で食料も捕れない情けない未熟者」です。
中世人達から見れば、「狩猟時代人は野蛮で不安定でかわいそう」、「近代人達は私腹を肥やすために堕落してる」です。
近代人達から見れば、「狩猟時代人は野蛮で無知無明でかわいそう」、「中世人は怠け者の上、宗教に洗脳されててかわいそう」です。
お互いに全く理解し合えません。
さらに、僕達現代人は「社会は時代と共に進化して良くなる」と信じきっていますが、それすら現代人の持つ独自のパラダイムでしかないようです。たとえば昔の中国では「古代が最も偉大な時代、その後はどんどん堕落してバカになって来てるだけ」という考え方が常識でした。
中世人が近代人を「堕落している」と思い、近代人が中世人を「怠け者」と思うことについて補足しておくと、中世では勤勉は悪で、近代では善だということです。勤勉というのは「より沢山の何かを手に入れるために、より沢山働く」ということですが、それは欲望の表出でカトリック的に堕落です。
近代以降「勤勉が尊い」ものになったのには理由があります。
最近はベーシックインカムなどの議論も活発化していますが、基本的に近代以降の思想は「働かざるもの食うべからず」です。優秀な勝者がたくさん得て、負けた人達は貧しい生活を余儀なくされる。それが「正しい」という時代です。
貧乏人なのはその人自身の所為で、努力不足、能力不足の所為で、自己責任だから仕方ない、という時代。昔はそんなことはなくて全部「神様の所為」でした。あの人が貧乏なのは神様の所為でかわいそうで、だから施してあげるのが「正しい」ことでした。
「優秀な人が、努力した人がいっぱい取るのが正しい」という時代になった理由は、1つには、進化論や何かで自然界が「弱肉強食」であるという科学的な常識ができたからです。それは別に自然界のことであって、本来人間の生き方や倫理とは関係のない話なのですが、そうは言っても社会というものは段々と科学の影響を受けます。面白いことに「人間の社会も弱肉強食だね、ふーん」というだけにとどまらず「人間社会も弱肉強食が正しい」という信仰にまで思想が昇華しています。
また別の理由は、近代以降の社会が大量の労働力を欲したからです。
「成長期を過ぎると優秀な工場労働者に育てるのは難しくなる。だから公教育が産業社会に不可欠だ」
ということをアンドリュー・ウールという19世紀の社会学者が既に言っています。
未来学者アルビン・トフラーは「公教育には表のプログラムと裏のプログラムがあって、表はリテラシーや計算なんかを教えることだけど、裏は”時間を守る””命令に従う””反復作業を嫌がらない”を叩きこむことだ」と指摘しています。
酷い言い方をすると、工場の一部として大量の労働者が必要だったので、子供の時から「一生懸命に作業することが善だ」つまり「勤勉は尊い」と学校を使って叩き込んだわけですね。
僕は個人的には小中高と受けてきた教育に強い反感というか、ほとんど恨みに近い感情を持っています。あんなものにホイホイ従っていた自分が恥ずかしいし、どうして誰も「学校なんてどうでもいいものだ」と教えてくれなかったのかとも思います。
学校というところは随分とおかしな所で、この先、今の形態がそう長く続くとは思えません。新しいパラダイムを生きる人に「えっ、あの義務教育っての受けてたんですか!?」と言われる時代もそう遠くないと思います。
「評価経済」という、この本の主題からは外れてしまいましたが、評価経済というものに関する本文での記述は、僕が最初に予想したものにそれほど遠くはなかったと思います。ただ、僕が思っていたよりもずっとダイナミックな変化であるという認識を得ました。
追記;
この「評価経済社会」を読んだ時に思い出した本があります。ホリエモンの「新・資本論 僕はお金の正体がわかった」という本です。副題に、僕はお金の正体がわかった、と書いてありますけれど、このお金の正体は「信用」とか「信頼」だと彼は結論付けています。たとえば病気になったときに入院や手術にお金が掛かるので、それが怖くて人々は保険に入ります。それはお金を使って不安を1つ取り除くという行為ですが、そんなことをしなくても病気になったときに助けてくれる友達や知り合いがたくさん入れば、入院するときにお金を貸してくれるくらいに親しい人達が周りにいればそれで大丈夫じゃないか、という話です。お金がなくて家賃が払えないなら、大きな家に住んでいる人に頼んで一室ただで貸してもらえばいい。そんなことおいそれと頼めるものでないと人は言うかもしれないけれど、そういうこともできない程度の人間関係しかない人生はそもそも無味乾燥ではないか、ということが書かれた本でした。堀江さんの「信用」と岡田さんの「評価」はとても似ていますね。
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kindle版もあるようです↓
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新・資本論 僕はお金の正体がわかった (宝島社新書) | |
堀江貴文 | |
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