イメージとしてのアメリカ、オタク文化と敗戦
なにを隠そう、僕はアメリカ文化育ちです。
アメリカの映画とアメリカのテレビドラマとアメリカの小説を、子供の頃たくさん消費しました。
実になんというか、クールじゃないですね。
これはつまり、ハリウッドのドンパチボカーン映画と西海岸の高校生ロックバンドの演奏みたいな音楽を好む大人になったということです。ええ、ヌーベルバーグでもスタン・ゲッツでもなく。スターウォーズとゼブラヘッドです。
20代のある時期、反抗期のようなものがやってきて「アメリカはバカの国だ」と言いながらゴダールやトリュフォーを見ていましたが、漫然と見ていただけでそんなに面白いとは思えませんでした。
挙句の果てに今はパリに住んでいる友達に連れて行かれたフランス映画祭では
幸せこの上ない若い夫婦と子供の家庭
→ 夫がある女に一目惚れして浮気
→ 奥さんに浮気相手も君も両方本気で愛していると告白
→ 奥さん承諾
→ 翌日の楽しい家族ピクニックで昼寝
→ 目が覚めると奥さんいない
→ 池に奥さんの水死体
というなるべくなら見ずに一生を終えたかったような映画を見てしまいました。それでも我慢してフランスの映画を見続けていたらベッソンのヤマカシとかタクシーなどのバカな映画に当たりずいぶんほっとしたものです。
そうして、いつの間にかやっぱりアメリカ文化が好きだと公言する状態に戻りました。
嘘をついてよその国に爆弾を落とそうが騙してお金を吸い上げようが、アメリカがどんな悪事を働こうが、やはり僕は自分の中にあるこの国への憧憬を否定することができません。
理性はなんとでも理知的なことを言います。「お前が憧れているとかいうあの文化は弱者を搾取した上に成立している大量消費社会のイコンそのものなのだ」と。ちょうど「戦車がかっこいいなんて馬鹿じゃないのか、あれは人殺しの道具だぞ」というのと同型です。
でも、僕はやっぱりアメリカ文化や戦車のことをかっこいいという思いを否定することができない。一つの病理として。特に一人の日本人として、僕はこれを重い病理だと受け止める他ない。
このまま、僕なりの敗戦後論を書ければ良いのですが、今はちょっとした別の浅はかな思いつきについて書いてしまおうと思います。
というのは、「イメージとしてのアメリカ」とオタクの人達が好きな「2次元の女の子」は同型だなと先程ふと思ったからです。
実は僕は、アメリカが好きだとか、アメリカ文化で育った、とか言いながらアメリカへ行ったことが一度もありません。このことに関して友人に「イメージとしてのアメリカ」だけで満足してしまっていて、本当のアメリカには興味がないんじゃないか、という風に指摘されたことがあります。それは半分当たっています。僕は本当にアメリカを訪ねたいと思っています。諸事情によりまだ行っていないだけだとも言えますが、裏を返せば必死で行こうとはしなかった、ということです。つまり実はそんなには行きたいと思っていなかったということなので、指摘は半分当たっているわけです。
僕の本心に関係なく大袈裟に書いてしまうと、カリフォルニアの地を踏むことより日本の自分の部屋でOCのDVDでも見ている方がいい、OCは本当のカリフォルニアには関係なくカリフォルニアという虚構のイメージの上に成立した虚構の物語であり、それはそれ自身で完結している。ということです。
この「イメージとしてのアメリカ」というのは、僕に限らず広く日本に蔓延しているのではないでしょうか。戦後日本を代表する作家の村上春樹も「イメージとしてのアメリカ」について触れています。彼の場合はアメリカの小説によって独自の「イメージとしてのアメリカ」を頭の中に作り上げていて、実際にアメリカへ行ったときも「実体としてのアメリカ」が「イメージとしてのアメリカ」を消すことはなかったというようなことをインタビューで言っていたと思います。
アメリカは言うまでもなくたくさんの国とそれぞれの関係を持っていますが、日本とアメリカの関係はそれでも随分特殊なものに見えます。一例として最近読んだある文章を引くと、
『市街地に絨毯爆撃を加えて一般市民を大量虐殺した上に核兵器による人類史上最悪のホロコーストを行ったアメリカが、憲法だけはすばらしいものを与えてくれたと本気で信じているの?』(適菜収「いたこニーチェ」より)
結構多くの人がそう信じているし、僕も子供の頃は学校でそう教わって素直に素晴らしいことが書いてあるのだろうと信じていました。
ここからはかなりインチキな社会学者みたいなことを書きますが、僕はこの「関係が複雑でなんだかうまく処理できないもの」から上澄みだけを取り出して「イメージとしてのアメリカ」を構成したのと同じ手順をいつの間にか一部の人達が「女の子」に対して適応した結果「二次元」という世界が日本オリジンで生まれたのではないか、と思いそうになっています。
逆の言い方をすれば、オタクの人達が「2次元」を扱うのと同じ手法で、戦後日本人はアメリカを扱ったのではないかということです。なのでもしかしたら二次元の研究は敗戦後論の助けになるのではないかと思いそうになっているのですが、二次元についても戦後日本についても良く知らないので、戦後日本の研究者である友人に聞いてみたいと思います。
アメリカの映画とアメリカのテレビドラマとアメリカの小説を、子供の頃たくさん消費しました。
実になんというか、クールじゃないですね。
これはつまり、ハリウッドのドンパチボカーン映画と西海岸の高校生ロックバンドの演奏みたいな音楽を好む大人になったということです。ええ、ヌーベルバーグでもスタン・ゲッツでもなく。スターウォーズとゼブラヘッドです。
20代のある時期、反抗期のようなものがやってきて「アメリカはバカの国だ」と言いながらゴダールやトリュフォーを見ていましたが、漫然と見ていただけでそんなに面白いとは思えませんでした。
挙句の果てに今はパリに住んでいる友達に連れて行かれたフランス映画祭では
幸せこの上ない若い夫婦と子供の家庭
→ 夫がある女に一目惚れして浮気
→ 奥さんに浮気相手も君も両方本気で愛していると告白
→ 奥さん承諾
→ 翌日の楽しい家族ピクニックで昼寝
→ 目が覚めると奥さんいない
→ 池に奥さんの水死体
というなるべくなら見ずに一生を終えたかったような映画を見てしまいました。それでも我慢してフランスの映画を見続けていたらベッソンのヤマカシとかタクシーなどのバカな映画に当たりずいぶんほっとしたものです。
そうして、いつの間にかやっぱりアメリカ文化が好きだと公言する状態に戻りました。
嘘をついてよその国に爆弾を落とそうが騙してお金を吸い上げようが、アメリカがどんな悪事を働こうが、やはり僕は自分の中にあるこの国への憧憬を否定することができません。
理性はなんとでも理知的なことを言います。「お前が憧れているとかいうあの文化は弱者を搾取した上に成立している大量消費社会のイコンそのものなのだ」と。ちょうど「戦車がかっこいいなんて馬鹿じゃないのか、あれは人殺しの道具だぞ」というのと同型です。
でも、僕はやっぱりアメリカ文化や戦車のことをかっこいいという思いを否定することができない。一つの病理として。特に一人の日本人として、僕はこれを重い病理だと受け止める他ない。
このまま、僕なりの敗戦後論を書ければ良いのですが、今はちょっとした別の浅はかな思いつきについて書いてしまおうと思います。
というのは、「イメージとしてのアメリカ」とオタクの人達が好きな「2次元の女の子」は同型だなと先程ふと思ったからです。
実は僕は、アメリカが好きだとか、アメリカ文化で育った、とか言いながらアメリカへ行ったことが一度もありません。このことに関して友人に「イメージとしてのアメリカ」だけで満足してしまっていて、本当のアメリカには興味がないんじゃないか、という風に指摘されたことがあります。それは半分当たっています。僕は本当にアメリカを訪ねたいと思っています。諸事情によりまだ行っていないだけだとも言えますが、裏を返せば必死で行こうとはしなかった、ということです。つまり実はそんなには行きたいと思っていなかったということなので、指摘は半分当たっているわけです。
僕の本心に関係なく大袈裟に書いてしまうと、カリフォルニアの地を踏むことより日本の自分の部屋でOCのDVDでも見ている方がいい、OCは本当のカリフォルニアには関係なくカリフォルニアという虚構のイメージの上に成立した虚構の物語であり、それはそれ自身で完結している。ということです。
この「イメージとしてのアメリカ」というのは、僕に限らず広く日本に蔓延しているのではないでしょうか。戦後日本を代表する作家の村上春樹も「イメージとしてのアメリカ」について触れています。彼の場合はアメリカの小説によって独自の「イメージとしてのアメリカ」を頭の中に作り上げていて、実際にアメリカへ行ったときも「実体としてのアメリカ」が「イメージとしてのアメリカ」を消すことはなかったというようなことをインタビューで言っていたと思います。
アメリカは言うまでもなくたくさんの国とそれぞれの関係を持っていますが、日本とアメリカの関係はそれでも随分特殊なものに見えます。一例として最近読んだある文章を引くと、
『市街地に絨毯爆撃を加えて一般市民を大量虐殺した上に核兵器による人類史上最悪のホロコーストを行ったアメリカが、憲法だけはすばらしいものを与えてくれたと本気で信じているの?』(適菜収「いたこニーチェ」より)
結構多くの人がそう信じているし、僕も子供の頃は学校でそう教わって素直に素晴らしいことが書いてあるのだろうと信じていました。
ここからはかなりインチキな社会学者みたいなことを書きますが、僕はこの「関係が複雑でなんだかうまく処理できないもの」から上澄みだけを取り出して「イメージとしてのアメリカ」を構成したのと同じ手順をいつの間にか一部の人達が「女の子」に対して適応した結果「二次元」という世界が日本オリジンで生まれたのではないか、と思いそうになっています。
逆の言い方をすれば、オタクの人達が「2次元」を扱うのと同じ手法で、戦後日本人はアメリカを扱ったのではないかということです。なのでもしかしたら二次元の研究は敗戦後論の助けになるのではないかと思いそうになっているのですが、二次元についても戦後日本についても良く知らないので、戦後日本の研究者である友人に聞いてみたいと思います。
いたこニーチェ (朝日文庫) | |
適菜収 | |
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