実は春からこちら、自分で独占して使うことのできる机がありませんでした。約半年間です。それがこんなに辛いとは思わなかった。独占できる机がなくても、なんとか上手くやれるのではないか、と思っていたのは間違いで、先週はもう限界だった。昨夜、暫定的にではあるけれど自分のワークスペースを確保したので、このブログの一個前の記事を書いて、それから今日はこれを書いています。子供の頃から自分専用の机と椅子なんてずっとあって、当たり前の物過ぎて大事さが分かっていませんでした。こんなに大事な道具だったなんて。
 昨日まで3週間くらいグラフィックデザイナーのイギリス人がうちに居候していたのだけど、彼とは2,3回、自分のワークスペースがないことの辛さについて話をした。彼はリビングのソファにずっと寝起きしていた。そこで日本語の勉強をしたり何かの作業をしたりするのはとても大変だったと思う。

 さて、暫定的なワークスペースとは言っても、実態は卓袱台一つのことなのですが、それがこんなに嬉しいならば、今早急にと思っている机と椅子を揃えて必要な本と道具を並べて、ということを行った暁には随分と気分のいいことになるのではないかと思っています。

 そういえば。昔、深澤直人さんが「キャンプに行って、カップを置こうとしたら、自然界にはそういうものを置くのに適した平面がないことに、まあ当たり前なんだけど気付いた」というようなことを言っていた。確かに自然界には水平平面はほとんどない。だから、これも当然すぎる話だけど、大昔には机なんてなくて、机はある時点で人間が創り出したものだ。これまで僕は机の上で成されたことにばかり目を向けて来たけれど、考えてみれば机の発明それ自体、人類にとってとても大事なものだ。

 そういえば。先日、人と話していて僕は「机、みたいに真に新しい言葉を作りたい」と言った。つまりはその言葉に対応する何かを。もう「机」とか「椅子」みたいに真に新しい単語はあまり生まれない。大抵が既存単語の組み合わせや変形で作られている。たとえば「携帯電話」のように。

 そういえば。佐藤文隆さんが物理学上のネーミングについて書いていらした。
 ある概念を物理学会に提出すると、その概念には大抵その提出者である物理学者の名前が付く、後にその名のついた概念は変化して意味合いを変える。たとえば宇宙のどこもかしこもが大体同じ感じであることをコペルニクス原理というけれど、地動説を唱えただけのコペルニクスが聞いたら「そんなこと言ってない。。。」という風になる。けれど、物理学というものはみんなで発展させていくものなので、誰かが提出した概念にみんなの考えが加わっていって変化するのは当然のことというか健全なことだ。
 じゃあ、もう個人名なんて使わなきゃいいじゃないか、という話にもなるのだけど、そうすると今度は新しい概念の名前を考えるのが面倒になる。素粒子の一つであるクオークの名前は、鳥の鳴き声だかなんだか全く意味のないものから名付けられている。それは意味のある名前を付けてしまうと後で概念に変化が生じた時面倒なことになるかもしれないからだ。なんとか粒子と名付けたのに、あとで「粒子でない」ことが判明したりするかもしれない。
 人名をやめて、全部クオークみたいに名付ければいいのかもしれないとも思いはするけれど、それはそれで人間味が失われる気もするし、きっと今のままでいいのだろう。
 
 そういえば。佐藤さんがそういうことを書いていらしたのは「量子力学イデオロギー」という、タイトルに期待して注文したところそんなは面白くない本の中でのことだった。その本は色々なところに書いたエッセイを集めたような形になっていて、中には量子力学と身体性といった感じの文章もある。大体、量子力学に触れた人間であれば一度は考える内容だと思うけれど、僕達が「わかる」と言っているのは「身体的アナロジーで分かる」ということで、身体性の限界を超越したものは「わからない」、だから量子力学は「わからない」というような感じの話だった。そして、僕達は量子力学という身体性の外側を扱う道具を手に入れたのかもしれないし、ならばそれは我々の身体性を記述できるチャンスかもしれない、ということが書かれていた。

 僕達は人間である以上、体から逃れることができない。面倒でもしんどくても体を通じなければ、世界を味わったり、機能を発揮することができない。それは多分、机の上に置かれた道具を実際に手で触ることと、PCやiPadで作業をこなすことの間にある隔たりをある側面から説明するものだと思う。いつでもどこでも、その場でできることで作業をどうにか進めていく、それでかつパフォーマンスを落とさない、というタフネスを残念ながら今のところ僕は持ち合わせていなくて、紙に書きたいときにラップトップでしか作業できないとか、作業出来る場所が自分の本棚から随分遠い(これは家とスタバとかそういうことです。。。)とか誰かが勝手に片付けてしまってるとか、何かをはじめるときにまず作業場所探しから始めなくてはならないとか、僕にはそういうのは結構辛かった。正直にいうと何もできなかった。そこへ卓袱台が手に入って、嬉しいというか、本当に救われた気分になっている。
デザインの輪郭
深澤 直人
TOTO出版