花火

 残念なことに湖面は全く見えなかったが、それでも空へ勢い良く広がった花火は圧倒的な美しさで迫り、左から右までパノラマに、連発された高輝度の造形と、少しく遅れて胸腔へ響く爆発音が、四角く囲まれた日常にそこだけ穴を開けている。
 空を見上げて、救われた気分になる。
 この一瞬で散りゆく花火の、一玉を作るのにどれくらいの労力が費やされるのか僕は知らない。けれどそれは当然、一瞬よりもとてもとても長い時間が掛けられたものだ。一瞬間につぎ込まれた大量の労力の炸裂。その容赦ない連続。
 こういうものは、やっぱり要るのだ。

 人の行いの、何もかもが丸っきり下らないように、ここしばらく感じていた。誰かが一生懸命に工夫したデザートだとか、絵画だとか、個展だとか、とにかく人が作った何かとか、あれが面白いとか、これがしたいとか、あの店がいいとか。もうほんとにどうでもいいじゃんそんなのアホらしい、と思っていた。本当はみんなそんなの全部アホみたいだと分かっているのに、でもそれらをアホみたいだと認めてしまったらもっとシリアスな何かと向き合う必要があって、それは非常に面倒なことだから、だからアホみたいだと思わないことにして、アホみたいだなんて全然思ってない振りして、アホみたいだという人をあの人変わってるからと嘲笑でなんとかやり過ごして、こんなに楽しいこと沢山あって良い人に囲まれた私は本当に素敵な人生を生きているのだと信じるように努めて、明日の下らない会社への出勤とその憂鬱を実際には大して気にしていないコーヒーの淹れ方にこだわる振りで誤魔化して、抑圧された日常の景色が詰まらないのは自分の見方が詰まらないからだ、そうだカメラを買って違う視点で街を見なおしてみよう、そうすればこの町も素敵に見えるはず、車で通り過ぎていたあの道路を歩いてみよう、そうすれば今まで見えなかった素敵が見つかるはず、とカメラを抱えて徒歩でウロウロして野良猫の写真を撮ったり、ほんとにみんなそんなことしたいのかよって思っていた。

 日常にある小さな幸せを否定するわけじゃありません。
 ただ僕は、ときどき、この人はそんなことを本当にしたいわけじゃないのに、仕方ないから、何かから気を紛らわせるためにそれをしているだけなんじゃないかと思うことがあります。それが良いとか悪いとか、人のことをとやかくいうつもりも何もなく、単にこの人の「楽しそうさ」はなんとなく紛い物っぽいなと感じる瞬間があるということで、楽しいんじゃなくて楽しいと思われたいし自分も楽しいと思い込みたいんじゃないかと、そう疑ってしまうことがあります。
 じゃあ目を逸らしているもっと本質的な何かってなんだよ一体、と言われたら明確には答えられない。けれど、その何かの一つは「社会」なのではないかと思うときがあります。社会という言葉だって随分と曖昧な言葉ではあるけれど、僕達は漠然と社会に対して、うーん、という感じを抱いていて、その「うーん」を解決することからは徹底的に目を逸らしているように思うのです。せいぜい「お金を稼いで上に昇って社会の問題を被る側からは抜けだそう」という戦略くらいしか考えないのではないでしょうか。

 そして「お金を稼ぐ」為に多くの人達が行なっているのは労働ですが、とても沢山の人達が「仕事イヤだー、辞めたい、もう嫌だ」と言いながら仕事を続けている社会というのは、実のところ物凄く変わっているような気が最近強くしています。怠け者の戯言だと笑われるかもしれないけれど。
 
金子光晴詩集 (岩波文庫)
金子光晴
岩波書店
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