宇宙人にさらわれた記憶を消された私はさらわれることを恐れる必要があったのか?

 僕が最初に「記憶」を「結構なんだか謎なものだ」と思うようになったのがいつからかは、結構はっきりしています。
 小学生の時に、テレビでUFOの特番を見た時からです。
 ええ「矢追純一スペシャル」とか「緊急特番!エリア55で宇宙人の解剖が行われていた!」とか、そういう牧歌的な時代の話です。

 すこし話はそれますが、先日、偶然YouTubeで昔の特番を見ました。
 これも良くあった「NG大賞」とかそういうやつです。何年頃の番組かは覚えていないのですが、たぶん20年くらい前のもので、服装などは兎も角、驚いたのはレポーターの話し方と、NG映像のあまりに露骨なヤラセっぷりです。
 レポーターの話し方は聞いて頂く他ないのですが、なんというか実に昔のアニメ的な喋り方で、例えるなら「美味しんぼ」の栗田さんが「今日は東西新聞社の社員旅行で軽井沢に来ています」的なナレーションを入れているのに似ていました。
 これには、話し方や発声にもトレンドがあるのだな、と感心するだけでしたが、NGのヤラセっぷりは本当にひどくて、僕はこんな程度の低いものを見て育ったのかと愕然とする他なかった。今の子供には通用しないでしょうね。

 閑話休題
 UFOと宇宙人、もとい「記憶」に話を戻すと、子供だった僕は「寝ているときにUFOが庭に現れて、宇宙人にさらわれて謎の手術をされる」という話にすっかりビビってしまいました。もう、寝るのか怖くて怖くて仕方ない。ベッドに入って布団を頭まで被って「宇宙人が来たらどうしよう」と怯えに怯えていたのです。
 ところが、そうして恐怖に耐えているうちに、ある事に思い至りました。
 宇宙人は地球人をさらって手術したあと、どうやら「その記憶を消す」らしいのです。秘密隠匿の為だかなんだか、宇宙人は記憶を消して、さらわれた人達は後から催眠術なんかを使って宇宙人のことを思い出すようでした。
 であるならば、たとえ今夜宇宙人が来ても、明日の朝、僕は何事もなかったかのうように普通に起きるわけで、じゃあ、これから宇宙人が来ることを恐れる必要なんて、もしかしたらないんじゃないか?というのが話の起点です。

 どうせその体験をきれいさっぱりと忘れてしまうのであれば、それは「体験しない」というのに等しいのではないか、と僕はその時から考え始めました。
 とはいえ、「明日の朝」にはそれを忘れているとしても、夜ベッドに入ったばかりの僕にとっては、それは「これから起こること」であり「これから体験することになること」なわけです。寝る前の僕はそれを「体験する」と言い、明日の朝の僕は「体験していない」と言う。さらに、体験している最中の僕はそれを「体験して」いる。これは一体どういうことでしょうか。

 思考を進めるに当たり、時間軸を縮めて考えることにしました。
 今、これから食べようとしているチョコレートを、食べると、食べ終えた瞬間に食べた記憶がなくなる、とします。
 その場合、僕はチョコレートを食べるのでしょうか。
 食べる前の僕が、チョコレートを食べたいと思い、食べるという行為をこれから行うであろうことは予測されますが、食べたからといって食べ終えたときには食べたことにはならないのです。
 これは一体何なのでしょうか。別にどこにも不思議なことはないじゃないか、と言われればそうなのですが、なんだか僕には腑に落ちないのです。

 そして、今度は逆に時間軸をうんと伸ばしてやれば、僕達はどのような人生を生きたとしても、死んだ瞬間にその記憶はすべて失われてしまいます(死で記憶がなくなるのと生きて忘れるのは別の話かもしれませんね)。
 どうせ全ての記憶が消えるのであれば生きても仕方ないなんて、陳腐なことをいうつもりは毛頭ありませんが、ただ、そこにもなんとも不思議な気持ちを持たざるを得ないのです。
 今の「私」が予期し、未来の「私」が体験し、さらに未来の「私」が忘却するという世界を、僕はあまり手馴れた感じで扱うことができません。




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