書評『転校生とブラックジャック』:私があの人ではなく私であるという不可思議

 今まで2冊しか本を読んだことがないのですが、それでも一番好きな哲学者だと断言している永井均さんの本を久々に読んでいます。「転校生とブラック・ジャック」という本で、副題が「独在性をめぐるセミナー」と書かれている通り、先生と生徒たちが語り合うという平易な形式で書かれた本ですが、非常に考えることが多くてなかなか読み進めることができません。でも、まあ少しづつ進めていこうと思う。
 先に、永井さんが好きだと書きましたが、好きだというよりは、こういう人がいてくれて本当に良かったなと思っています。なぜなら、たった2冊しか読んでいないのにこういうことを書いて良いのか分かりませんが、僕の印象では永井さんが子供の時から取り組んでいらっしゃる問題というのは、僕が子供ときから考えている事と、かなり似ているからです。それが、副題にも書かれている「独在性」というものです。あと、これも独在性に含めてよいのかもしれませんが、「記憶」。

 独在性というのは「自分が、あの人ではなく、自分であること」なのですが、僕はこれが昔から不思議で、考えてもなんだか良く分からなくて、ただ途中から「うーん」と唸って終わる、ということを何度も繰り返してきました。
 それは哲学的な素養や、徹底した思考の足りない僕の限界で、そこから先へ進むには永井さんのような先人が必要でした。だから本当に永井さんの存在をありがたく思います。

 自分が自分であることは、当たり前のようでいて当たり前ではないように思います。
 僕は「僕」であり、「今」「ここ」から「僕」を中心に開いた世界を見ていますが、僕が「あの人」であり、「あの時」「あの場所」から「あの人」を中心に開いた世界を見ていた可能性だってあったはずです。
 僕の代わりに、僕として、全く同じ両親から、全く同じタイミングで生まれて、全く同じ遺伝子を持っていて、全く同じ出来事を生きて来て、全く同じ記憶を持ち、全く同じ性格を持っている、「しかし僕ではない」僕という存在だって在り得たはずです。

 ただ、端的にそういうことは起こらず、僕は今ここに僕として存在し、僕から開けた世界を見ています。それが、「以前」からそうであり、「以後」もそうであるのかは分かりませんが「今」はそういうことになっています。
 もしかしたら、さっきまで僕はあの人だったかもしれません。

 なんというか、ときどき映画やなんかで「体が入れ替わる」話ってありますよね。
 あれで、入れ替わるのが体だけでなく「記憶(あるいは性格なども含めて)」も入れ替わるとしたらどうでしょうか。
 体が入れ替わっただけなら、本人達は入れ替わったことに気付きますが、「記憶」まで一緒に入れ替わったら、本人達は入れ替わったことに気付くのでしょうか。たぶん気付かないですよね。それどころか、他の人達から見ても、彼らが入れ替わったなんて思う人は一人もいないに違いありません。
 「うん、それはだって、外側も内側も全部入れ替わるのなら、それは入れ替わりじゃないじゃん」という人もいると思います。
 だけど、断じてここでは入れ替わりは発生しているわけです。
 なぜなら、先ほどまで、それぞれの世界はそれぞれから開かれていて、その視座は移動していないからです。この視座は記憶のことではありません。もしも記憶が変更されたり消されてしまっても、その人がそこから世界を見ているという視座は変化しません。この視座というものの本質が何なのかというのが独在性のポイントでもあると思います。

 話がややこしいので、もう一度同じようなことを書きますが、僕達は多分他の人と「体」「記憶」を共に交換しても気付かないでしょう。だから、僕には僕がずっと本当に僕であって、さっきまであの人であったわけではない、という確信があまりないのです。
 あまりない、とは言っても、普段は確信して日常生活を送っていますが、もちろん。

 「記憶」については次回書きたいと思います。

転校生とブラックジャック――独在性をめぐるセミナー (岩波現代文庫)
永井均
岩波書店


翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない (ちくま学芸文庫)
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筑摩書房
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