やる気という企業化社会の信仰

 前回のブログが、酔っ払って随分と違うものになってしまったので、今回はもともと書くつもりだったことを書きます。
 随分穿ったことなので、こちらもどうせ変かもしれません。

 もともと書こうと思っていたのは、「やる気」というものが、僕達のネイチャーから離れた信仰のようなものになっているのではないか、ということです。”我々の”社会は産業革命に端を発する「工業化」を成し遂げて、その後「企業化」しました。「全部、官僚が悪いんだ!」みたいな雰囲気の中で、政治家が「だから今こそ政治主導を!」と叫んでいましたが、日本は「企業化」した国家であって産業界が強い。それは今回の東電の件でも思い知らされました。
 企業化した社会では、全てが企業を中心にして廻るわけだけど、教育というものも当然そこには含まれます。ごちゃごちゃ言わなくても、ずっと「大企業に入る」ために「偏差値高い大学に行く」ために「偏差値高い高校に行く」ために「偏差値高い中学校に行く」ために「偏差値高い小学校に行く」ために「幼稚園お受験」する、的な構図があったことは誰もが知っています。そういうものを美化する「トレンディ」ドラマもインターネット普及前のTVではバンバン流れていました。

 この大企業就職へと収斂して行く人生の過程で、人は何度も「面接」という選別に掛けられることになります。受験にも就職にも面接は付き物です(多くの大学受験が学力試験だけでサバサバしているのは救い)。
 その面接の場で、我々は「やる気」というものを問われます。
 「やる気」のある人は、当然のように「やる気」のない人よりも採用されやすいことになっています。企業が「やる気」のある人を求め、学校が「やる気」のある生徒を求め、ということをしているうちに、「やる気」という実は得たいの知れないものにプレミアがついてしまいました。

 そこで、人は「やる気」というものを装うようになった。
 装いは自覚的に「面接だし、やる気あるって言っとけばいいや」と行われることもあれば、ほぼ無自覚に、「やる気」のある人間こそ幸いなりとばかり、無理矢理なにかの対象に「やる気」を見出す場合もあります。
 後者には「実は好きでもないものを好きだと思い込む」パターンと、「好きなものを延々と探し続ける自分探し」というパターンがあると思います。

 さらに、この傾向に拍車を掛けるように、文科省は学校における生徒評価に「意欲関心態度」というものを導入しました。試験ができない生徒も「やる気」を示しておけば「成績が上がる」わけです。こんなにおいしい話はありません。親も「やる気を出せ、先生にやる気を見せろ」となるのは当然で、こんな風に周囲の皆が「やる気やる気、やる気が大事」という環境下に育てば、やる気汚染された子供が育つのも当然のことです。

 言うまでもなく、僕達人類は「原始的なやる気」というものも内包しています。
 そうでなければ、サルからここまで来れなかったでしょう。
 しかし、その「原始的なやる気」というものは、子供の間は大方「ひたすらキャッチボールしている」とか「ひたすら落書きしている」というような形で現れるもので、これらは現代的な「やる気」には査定されません。むしろ「やる気なし」の症状です。

 つまり、「やる気」というものが、「何に対しての」かというと、まずは「勉強」が何段階か続き、ひいて「仕事」というのが最終的に現れるわけです。実は、子供が「やる気あんの?」と問われているとき、それは究極的には、遠い未来に働くであろう企業から「我社でしっかり身を粉にして働いてくれるのかね、君は」と問われているわけです。もっとヒネタ書き方をすれば「うちの役員とか株主の為にしっかり利益出してくれるよね、君?」です。
 そんなもの答えは「ノー」に決まっています。
 ちょっと穿ちすぎかもしれませんが、受験合格をインセンティブにした教育は、そういうことだと思います。

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希望の国のエクソダス
文藝春秋