誰もいない山の中で蛍を見たこと

 トイレへ行きたくなったので、テント入り口付近に置いたスケートボードの上からスニーカーを取る。網戸のチャックを開け、それから更に外側を覆うナイロンのチャックを開ける。外にはまだ微かな微かな太陽の光があった。河原の石がぼんやりと蒼く見える。外へスニーカーを放り出して、トイレくらいならまだ懐中電灯は要らないな、と思う。半分手探りでスニーカーに足を突っ込みタープの影から立ち上がった僕はOh my god!と言った。本当に。

 こんなにたくさんのホタルを見たのは生まれて初めてだ。
 鋭い傾斜の山に挟まれた谷底の川はホタルで一杯だった。暗闇を無数の緑色に輝く点滅が飛び交う。静かで強い光。
 高く見上げた空はまだ遠くの夕焼けからほんの少しの光を引き込んでいる。ほとんど真っ暗な谷底とのコントラストが樹々の形を切り取り、そんな背景を高く飛ぶホタルはもうまるっきり鈍足の流星だった。

 なんて僕は実は放尿の最中だったんだけど、用を足した後も空が漸近的に暗くなるのをずっと見ていた。あのホタルは全然動かないなあ、そうかあれは星か。夜空が現れ、名前を知らない生き物たちの声が山を包んでいる。
 そして僕は一人だった。
 生き物たちが闇の到来と共に活動を開始し、光と音で会話を始める中、昼世界の住人である僕は完全に一人だった。

 いつか一人きりでキャンプをしてみようと、しばらく前から思っていた。
 別に取り立てて一人キャンプがしたいわけではなく、一度くらいそういう経験もあった方がいいのではないだろうか、という風に思っていた。男たる者、山の中で一人で寝れないとは何事か、と。

 思っていたのに実行しなかったのには、2つの理由がある。

 1つ目は、一人でキャンプをしたって全く楽しくなさそうだということ。僕は基本的に一人でどこかへ行きたいとは何につけても思わない。特に一人旅なんて苦痛以外のなにものでもないし、しない。どこへ行くにしても、誰かと一緒に出掛けて苦楽を(というと大袈裟だけど)、色々な体験を共有したい。

 2つ目は、一人でキャンプをするのは怖そうだということ。複数のパーティーでなら、子供の頃から何度もキャンプには行っているので、山の夜がどれだけ暗くて恐ろしげであるかは良く知っている。2、3人でよく分からない山の中に泊まるのは、あまり気持ちの良いものではない。それが一人となるとやっぱり怖いだろうなと思う。もちろんキャンプ場なんてところは想定していない。

 そういう理由でずっと躊躇っていたのが、今日の昼間、急に「行こう」と思い立ってパッキングを始めてしまった。始めさえすれば、一泊分のパッキングなんて本当に5分で終わってしまう。きっと一人キャンプなんて僕には面白くないだろうから、KindlePomeraも持っていくことにする。iPhoneがフルチャージになるのを待って、日焼け止めを塗り、ザックを背負って部屋を出た。
 もちろんスケートボードも忘れずに。
 去年、東京旅行に行ったときスケボーを持っていかなかったのでとても困った。以来、少しでも遠出をするときは必ずスケートボードを持っていくことにしている。あるとないとでは全く機動力が違う。今回はキャンプだけど、目的地の近くまでアスファルトの道路があるので、やはり持っていくことにした。

 途中で水と食料を買う。
 チョコバーとかサンドイッチとかすぐに食べれるものばかりと水2リットル。とてもじゃないけれど、一人キャンプでわざわざ何かの料理を作る気分にはなれない。ストーブやコッヘルすら持ってこなかった。どうしてもお湯が欲しくなったら焚き火を起こしてシェラカップで沸かせばいい。多分、それもしないだろう。昨日の雨で枝も湿っているに違いないのにメタも持ってこなかった。僕にとっては、一人で飲むのならコーヒーでもお茶でもスープでも水でもビールでも何だって同じことなのだ。だから水でいい。

 電車を2回乗り換えて、目的の駅で降りる。平日、天気もパッとしない夕方にこの駅で降りたのは僕一人だった。この駅から後は、細い車道で自動車1台、バイク1台に追い越された以外、誰とも会っていない。

 しばらくはアスファルトの道路を歩くので、スケボーが活躍する筈だったけれど、これは思ったよりも困難だった。まず、道の勾配が思ったよりもきつい。だから上りはスケボーなんかに乗れたものではない。手に持って歩かなきゃしょうがない。
 そして坂を登って、やっと下りだということになっても、下りは下りで急なのでスピードが出過ぎる。スケートボードというのはブレーキも何も付いていない極めて原始的な乗り物なので、スピードが出ると急には止まれない。来なさそうではあるが、もしも対向車が来たら、こんな細くて曲がりくねった道では多分ぶつかって大変なことになってしまう。
 さらに、山道をバイクや自転車で走った経験のある人なら良く分かると思うけれど、山道には石や木の枝がたくさん落ちていて路面状況が随分と悪い。自転車やバイクのタイヤですら影響を受けるのだから、イスのキャスターよりも小さいスケボーの車輪にとって石や枝がどれほどの障害かは言うまでもない。

 というわけで、誰も見ていないのをいいことに、僕はスケボーの上に座って乗ることにした。小学生の時以来だ。座って、両足で適度にブレーキを掛けながら坂を下る。アスファルトが雨で濡れていて、スニーカーの底が滑り思ったよりも制動が利かない。
 対向車が来たら路側に突っ込むしかないかもなあ、これは。
 小石が跳ね上がり、板を握る指を叩く。
 随分カッコ悪いものの、これで幾らか距離が稼げた。

 坂の緩い所では立って普通に乗れる。
 トンネルを抜け、橋を渡り、子供の頃から遊び慣れたあの川へ到着。ここから先、道路は舗装されていないのでスケボーは手で持つしかない。

 しかし本当に今日は一人だなと、行方不明者捜索のポスターを見ながら思った。ここで誰かが姿を消したらしい。そういうことはこの辺りではたまにある。死ぬ人も沢山いる。死者多発の注意書きもあるし、今日も来る途中に供えられた花束を見た。
 いくら勝手を知っているとはいえ、本当にこんな所に一人で来て良いのだろうかと思いながら僕は先を急いだ。

 夏の太陽は夕方もまだ明るくて、清流を眺めながら歩くうちに気分が晴れてきた。ヘビに気をつけて歩く。そうだ、日本の山で一番怖いのはマムシとヤマカガシで、それにさえ気をつけていればきっと大丈夫だ。

 こんなに広い空間で一人なのははじめてのことで、気分がどんどんと開放的になる。この川は子供の頃からの友達だ。何も心配は要らない。あと、少し歩けば、お気に入りの場所に辿り着く。あっ、見えた。あそこだ。

 お気に入りの場所と言っても、ここへ来たのはもう何年ぶりだろう。当然のことだけど地形が少し変わっている。テントを張ろうと思っていたところが、以前よりもこんもりと盛り上がっていて、雨の後で地面が湿っているから高くなってて良かった、また少し降るかもしれないし、と思った直後に、まさか行方不明の人がここに埋まっていたりしないよな、と想像して打ち消す。

 ザックを下ろし、テントを張って、荷物を全部中に放り込み、汗だくのTシャツを脱いで裸になり短パンだけを履いた。川へ足を浸しながらサンドイッチを食べて水を飲む。周りを眺めるのに飽きたら本もあるし、文章だって書ける。これは悪くないんじゃないか、一人も悪くないかもしれないな、なんかとても優雅だ。

 本当に人もいないし、短パンも脱いで泳ごうかとしたけれど、泳ぐには水が冷たすぎたし、もしも溺れたら誰も助けてくれないなと思ってやめにした。僕は中学生の時ここで真剣に溺れかけたことがある。

 サンドイッチも食べ終わり、ついでにシナモンロールも食べ、一通り景色も楽しみ、泳ぐのを断念すると、もうすることが何もなかった。本も作文も全く集中できない。自然の中で坐禅を組むのはとてもいいのではないかと思ったけれど、それもする気にならない。知らないうちに何かの虫に噛まれて何カ所からか血が出ている。人間って弱いなあ、ちょっと外でぼーっとしてたら噛まれてしまう。獣みたいな毛がないものなあ。などと思いながらテントに入って網戸を閉めると急激な眠気に襲われた。もしも仮にこの下に何かが埋まっていたとしても、もう僕はここで寝よう、と思うような強く心地良い眠気だった。

 雨の音で目が覚める。どれくらいウトウトしていたのか分からない。眠っていたのか微睡んでいただけなのか、どちらにしてもそんなに長い時間ではないはずだ。テントは張ったけれど、まだいいかとタープは張ってなかったので、急いで外へ出てタープを張る。
 僕はタープが好きだ。一枚の布で安心感が全然違う。そして、タープとテントの間の空間がなんとも言えない。濡れた洗濯物を乾かしたり、外でもなく内でもなく、まるで縁側のように。

 雨はすぐにやんだ。でも、外は暗くなってきて、特にすることもないので、僕はテントの中にいた。やっぱり本も読む気にならないし、少し書いてみた作文も興が乗らない。あまりにも退屈なので、一応非常用に買ったチョコバーを食べた。チョコバーなんて3分で食べ終わるわけで、その後はもう完全に何もすることがなかった。もう寝てしまう以外にすることないけど時計はまだ8時だった。帰ってシャワーを浴びたりしたいなと思う。街がとても恋しくなる。だけど、僕は一泊するために来たのだから、ここで退屈だからと帰るのも中途半端だ。

 それからトイレに出ると、冒頭に書いたようにホタルが飛んでいた。
 僕は呆然としてそれを眺め、今日はこれを見る為に来たのかもしれないと思った。深夜になったらもっとホタルは増えるかもしれない。それも見た方がいいかもしれない。でも、どうせならやっぱり誰かと見たかったな。
 そんなことを思いながらテントに戻り、もう寝てしまうことにした。

 ところが、とても本気で眠る気にはなれなかった。

 怖かったのだ。
 怖いのは山の闇じゃなかった。人だった。もしかしたら変な人が来て眠っているところを襲われるかもしれない。テントなんて布一枚だし、どうにでも急襲できる。そして、ここは目立つ。野生の生き物だって隠れて眠るのに、僕はこんな目立つところでテントを張っている。これはあまりにも無防備だ。もう山の中で夜に一人でいるのがどんな感じかは分かった。それも怖いと言えば怖いけれど、予想よりも小さなどうにでもマネージメントできる怖さだ。でも、人に襲われるのは本当に怖い。多分そんなことは起こらないだろうけれど、起こったら単独で眠っている僕には対応する術がない。実際に、この辺ではたまに事件は起こっているのだ。さらに僕にはここにいる理由はなくて退屈しているだけなのだ。

「帰ろう」

 そう思った瞬間に恐怖が胸の底を押し上がってきた。テントの中を急いで整理する。全てをザックに入れて、服を着替え、荷物をテントの外に出す。駅まで戻ればまだ電車はある。暗闇の中で懐中電灯を照らしタープを外し、テントを畳む。もしも”そいつ”が今日じっと樹の影から見張ってたらどうしようかと思う。「帰るのか!」と森のどこかから声が飛んできたらどうしようと思う。大丈夫だ、最悪そんなことがあっても、起きている今なら対応できる。眠ってからが怖いわけで、眠ってない今は大丈夫だ。それでも急いでパッキングを済ませてザックを背負う。ホタルの数が増えている。川のずっと向こうまでもホタルが飛んでいる。

 ライトの灯りが、自分の位置を教えているようで嫌だった。でも消すわけにはいかない。地面も見えないしヘビにも注意しなきゃならない。足を下ろす岩陰にヘビがいるかもしれない。実際のところ今はヘビが最も現実的なリスクなのだ。
 ライトで照らした先に”そいつ”が待ち伏せていたらどうしようと思う。大丈夫、それならそれで戦える。

 ようやく舗装された道路に出て少しほっとする。でも街灯はほとんどないのでどうせ真っ暗だ。唯一の灯りは2つあるトンネルだけど、誰もいない夜の山道のトンネルというのもそんなにいい気分はしない。
 一つ目のトンネルを抜けると真っ暗な下り坂で、スピードが出すぎるけれどもう僕はスケボーを下りも、座りもしなかった。地面をライトで照らして必死に石を避ける。
 そして「今ならまだなんとか飛び降りられる」というポイント・オブ・ノー・リターンを逃してしまった。テンションがちょっとおかしかったのだと思う。後はバランスを取ることに必死だった。このスピードでコケたら絶対にヤバイ。車が来るか、避けられない障害物が落ちていたらアウトだ。
 幸いにも坂が終わって平らになる部分までなんとか乗り切った。
 上りは歩いて登る。
 もう下りに変わっても怖くてスケートボードには乗らなかった。さっきはたまたま運が良かっただけで、同じことはもうできない。二度としない。

 そうして駅の灯りが見えたとき、それが無人駅であろうとも、僕は心の底からホッとした。駅には誰もいないけれど、そこは少なくとも明るくて、待っていれば電車がやってくる。電車には人が乗っていて、隣の駅まで行けば携帯電話も通じる。駅は街に通じている。
 10分も待たないうちに運良く電車がやって来た。僕は水でも被ったみたいに汗だくで、手もスケートボードも泥だらけだった。隣の席ではサラリーマンがラップトップで何かの書類を作っていて僕には一瞥もくれなかった。

 iPhoneが繋がるといくつかのメールが来ていた。
 電車は都市部にどんどんと近づいて行き、また2回乗り換えて、街の中を走る電車で家まで帰る。
 僕達は獣のように密集した毛を持たない、街に生きる為の動物なのかもしれない。

サバイバル登山家
服部 文祥
みすず書房


螢・納屋を焼く・その他の短編 (新潮文庫)
村上 春樹
新潮社
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