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6.11デモに行ったこと

 四条大橋を差し掛かると、報道だか観光だかのカメラが増える。一晩降り続いた雨は午前中に上がり、深い雨を降らせた灰色の雲の名残がまだ微かに空を覆っている。昨日、雨が降り始めたとき、まるっきり妨げのようにしか見えなかった天候は、蓋を開けてみると僕たちの味方だった。橋の上は無風。湿っけて重たくなった大気が、肌をうっすら覆った汗の膜に重なる。

「天気が悪くてかえって良かったね」

「うん、これが晴れてて炎天下の真昼だったらちょっと街中をデモで練り歩くというのは辛いね」

 2011年の6月11日土曜日、僕は生まれてはじめてデモというものに加わった。言うまでもなく「反原発」のデモだった。
 多くの人がそうであると思うけれど、できれば僕はデモというものに参加して街を歩き回るということをしたくなかった。もともと団体行動はあまり好きではないし、徒党を組んで叫びながら歩き回ったところで何かが変わるとは考えていなかった。特定の人々の自己顕示欲と権力から遠い人々の不満に対するガス抜きのようなものにすぎないのではないかとも考えていた。実効性のないただのパレードじゃないかと。あるいはデモというものはデモの為にあるのではないかと。

 だから、行こうか行くまいか最後まで迷った。デモは12時に京都市役所前に集合し12時30分に出発する予定で、僕が到着したのは12時半だった。プラカードを渡されたり、「じゃあ出発しますので3列でお願いします」と言われている頃、僕にはまだ迷いがあった。ここにやって来たのにはそれなりに理由があるからだけど、その理由というのは必ずしも集まっている人々のそれとは同じではないからだった。でも、考えてみればそんなのは当然のことだ。何百人という人間の考えが細部に至るまで全部同じであるということはまずない。今日は原子力行政に対する反感を露わにするという大まかな点さえ一致していれば、それでいいのだろう。

 老若男女とりどりの200人が、警官に誘導されて静かに歩き始めた。

 少し前に、大阪の十三で「ミツバチの羽音と地球の回転」という映画を見た。瀬戸内海に浮かぶ祝島を舞台にした鎌仲ひとみ監督のドキュメンタリーだ。島は多くの日本の田舎がそうであるように過疎が進んでいて、住んでいるのは大半が老人。その老人達がもう30年近くも、島から4キロの対岸に建造予定である上関原発に対する反対運動を繰り広げていて、そこには文字通り生活が掛かっていた。人々は本気だった。真剣で危機感にドライブされた反対運動だった。

 「私たちだけの反対運動で原発の建設を止められるとは考えていません。しかし、わずかであっても計画を遅らせることはできる」

 皮肉にも3.11の震災によって、祝島のことはより広く知られることとなった。僕も3.11の後に知った一人だ。
 今月、13日、中国新聞の速報によれば山口県下松市議会が上関原発凍結を全会一致で議決したらしい。島の人達の長い長い努力はここへきて結実し始めた。

 僕が原発反対のデモに参加したのは、最終的にはこの映画が理由になる。いろいろな理由がもちろんあるわけだけど、この映画の影響はとても大きい。
 中国電力側が強力に押し進めてくる原発に対して、老人達が座り込んだり、漁船で進路を塞いだりして対応していた。拡声器でやりとりされる中電と島民の言葉には、天と地ほども重さの違いがあった。中国電力の言葉はペラペラだった。たぶん、僕が、あるいは現代日本が握りしめてきた種類のペラペラさがそこにはあった。
「27年間、私たちをどれだけ苦しめてきたのか、それがあなた達には分からないのですか、どうか帰ってください。祝島は海を売っていません」という島民の言葉には本当の意味合いで意味がこもっていた。僕は、こんなに嫌だと言っている人々がいるなら、それでもうすべて終わりだと思った。どんな理屈も効率もアセスメントも、全部この「嫌」に比べたらどうでもいいことだ。80歳を超えた老人達が連日座り込みをして「この海を埋めるなら私も一緒にどうぞ埋めてください」というような「嫌」を破ることが、一体何をもって正当化できるというのだろう。これは全ての正しさや理屈の立脚点であるべきなのだ。ここから、地に足の着いた暮らしの幸福を守ることから全ての議論は始まるべきなのだ。
 僕たちの暮らしに一種のシステムが必要だとしたら、そのシステムは暮らしを守るためのシステムであるべきなのに、システムを守るために暮らしを破壊するようなことが平気で行われようとしていた。行われようとしていたし、されている。この島でだけではなく、世界中の至る所で。

 原子力発電所は、そうして54個も作られてきた。疲弊した地方のある町に、いきなり何百億ものお金を振り込む。「補助金ですよー。原発を立てさせてくれたら、これからずっとこういう補助金あげますよー」
 たとえば、人口が1000人もないような小さな町に数百億が振り込まれることを考えてみればいい。これは一人一人が数千万から億に近い金額を受け取るのと同じことだ。併せて「原発は安全です」プロパガンダ。ほとんど安全と言われているものを受け入れるだけで1億円。たくさんの人が原発を受け入れるだろう。そうして原発反対派は村八分にされて力を失う。

 祝島は漁協に勝手に振り込まれた五億何千万というお金を中電に突き返して、ずっと反対運動を続けてきた。もちろん中には原発賛成の人だっている。原発の話が来てから島の中が割れてしまった、と島民の方がおっしゃっていた。
 さらに、これはもう驚くべきことだけど、選挙で原発推進派の町長が選ばれるようにと、中国電力は社員など100名以上を不正転入させたらしいし、票の買収などで逮捕者が出たりもしている。
 これはもう、正攻法で議論を尽くして解決する問題ではなかった。中国電力はどんな手だって使ってくるということだ。そして老人達は物理的に作業を妨害するという手を打った。
 僕たちだって本当は同じことだ。情報は隠蔽されコントロールされ、金にものを言わし、政治を動かし、あの手この手で僕たちはやられてきたのだ。

 いやいや、声をあげている人の意見を聞かなかったでしょ、見て見ぬ振りだったでしょ、全国民が共犯者で、全国民に責任があるのだ。という意見に別に反対はしない。その通りだと思う。でも、残念だけど、僕たちはそこまで賢くはない。教科書とテレビと新聞の全てを疑って、「原発はヤバい」と書かれた一冊の書籍を信じて立ち上がるのは、相当に大変なことだ。少なくともインターネット以前の時代にそんなことできる人なんていなかったと思う。普通は「トンデモだな」で終わる。信頼したとしても、確信を得る為には自分で資料を探しに行ったりしなくてはならない。今みたいにネットで検索というわけには行かない。あちこちに電話をかけて手紙を出して、休日に何百キロを移動して話を聞きにいかなくてはならない。そんなことを普通に働いて生活している人がわざわざするだろうか。やっぱりそれは無理だと思う。

 それは熱意が足りないからだとか、知性が低いからだとか、批判されるポイントはあるのだろう。でも、そういうことなんです。残念ながら、僕たちはみんながみんなそんなに正義感や熱意に溢れているわけでも、高級な知性を持ち合わせているわけでもないんです。僕なんか、今回の震災があるまで電気が1社独占であることが変だなんて思いもよりませんでした。京都では電気は関西電力で契約する。それは当然のことだとしか思っていなかったし、疑問を挟むことができませんでした。ええバカです。そういった僕の知性の欠落が福島原発のような惨事を招いたのだ、という指摘があれば謝るしかありません。

 ただ、「じゃあ黙ってろ」と言われると、それは違うと思う。お前にも非があるのだから、正義の面下げて今更ごちゃごちゃ言うな、と言われたら違うと思う。
 これは「でもあなただって電気使ってますよね」という口封じのロジックと同じだけど、僕たちは非があったのであればそれを取り戻す動きをするべきであって、すみませんでしたと言って小さくなって黙っているのはその方が変だ。「電気使ってるんだから原発に反対する権利がない」のではなくて、「電気を使っているからこそ、使っている電気のことをキチンと考え物言う」方が自然だと思う。

 だから、僕も声を出そうと思った。
 もう斜に構えてクールなふりしてるようなゆとりはこの国にはない。

新訳 ゲバラ日記 (中公文庫)
チェ ゲバラ
中央公論新社


モーターサイクル・ダイアリーズ (角川文庫)
エルネスト・チェ ゲバラ
角川書店