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偶然と必然

 偶然、って一体どういうことでしょうか?

 たとえば、ここにAさんとBさんがいるとします。
 AさんとBさんが、「えっと、明日の8時に京都駅で待ち合わせでいい?」「うん、いいよー。じゃあ明日ねー、バイバイ」というような約束をしていた場合、翌日8時にAさんBさんが京都駅で会うことは偶然ではありません。

 でも、AさんとBさんが何の約束もしていないのに、ある日の8時に京都駅でバッタリ顔を合わすことがあれば、これは偶然です。
 もっと頑張って、Aさんは香港に住んでいて、Bさんはニューヨークに住んでいるのに、なのにある日の8時に京都駅でバッタリ会ったならば。これはもう「運命を感じてしまうようなものすごい偶然」です。

 でも、良く考えてみると、この2つの状況は「AさんBさんがそれを知っていた」という以外は同じなんです。

 全然関係ないような話をします。
 「幽霊・オバケ」についてです。

 「オバケを見た!」というと、オバケなんていないさと考えている人からは、しばしばこのような反論が飛んできます。

 「それはオバケじゃなくて目の錯覚だよ」
 「まだ寝ぼけていて、脳が創りだした幻覚だってば、夢みたいなもの」

 実は僕自身がこのような安易な言説を唱える子供でした。
 僕は子供のとき科学が大好きで、でもオカルトも結構好きで、UFOにさらわれたらどうしようとかも思っていたし、真空からエネルギーを取り出せるというメビウス巻きのコイルを作ったりもしていました。ツチノコも探しに行ったし、真言密教のマントラを唱えて賢くなったり空を飛べるようになったりしようと試みていました(いわゆる虚空蔵求聞持法というやつです。。。)。

 頭からどっぷりと信じていたわけではないのですが、そんなにあっさり否定もできない、もしかしたらということだってあるかもしれない、と思っていたのです。白でも黒でもないグレーなものがこの世界だと、子供なりに思っていました。

 加えて「正統科学」と「オカルト」の境界をそんなには見分けることもできていませんでした。当時はまだインターネットもなくて、僕は田舎の子供で、情報源は町の小さな本屋とテレビと新聞だけだったのです。ジュニア朝日科学年鑑という立派な本が年に一度出版されていて、僕はそれを毎年買ってもらっていたのですが、その「正しい科学」っぽい本にも「コマは右回転すると軽くなる」とか怪しい記事がありました。

 ただ、グレーな立場に立ち続けるには結構な労力が必要です。常に判断を保留して考え続けなくてはなりません。人と話していても肯定も否定もしきらないので、面白みにも欠けます。

 高校生になった頃、「トンデモ本の世界」という本が発売されました。
 とても売れた本なので内容をご存知の方も多いと思いますが、これは「オカルト本を紹介してケチョンケチョンに合理的科学的にこき下ろして楽しむ」という本です。
 当時の僕はこの本の”面白さ”に惹かれました。それが例えキャラ立てでしかないとしても「科学という明確な基準を用いてバッサバッサとオカルトを斬る」というのは、正しいかどうか以前に”楽でかつ愉快”だと思えたのです。
 そうして僕は高校時代をほとんど完全な「アンチオカルト」で過ごしました。

 考え方を改めたのは、高校卒業後、僕が浪人をしていた頃です。
 先に大学に入ったり働き始めたりした友達は免許を取って車に乗り始め、自動車という強力な遊び道具を手に入れた僕達は時々集まってドライブに興じていました。しかし、なんといってもお金もそんなにはないし、夜に車で目指すべき目的地も別にそんなに沢山はありません。そんな中、肝試しというこれもまた安直な提案がなされるのは時間の問題でした。
 ところが、これが一筋縄に行かないもので、なんと火葬場の同じ場所で同じ車が2回もエンストしたのです。車は当時一番新しい型のホンダ、アコードワゴン。友達が高校の間毎日、新聞配達をしたお金で買いました。もちろんオートマです。

 オートマティックの車がエンストするだけでも珍しいのに、2回となると「単なる偶然」ではないなんらかの要素を僕は考えてしまいました。
 無論、筆頭に上がるのはドライバーがみんなを驚かすためにエンジンをこっそり切った、という疑いなのですが、本人の態度と言動から、とりあえず彼を白として、他の可能性は「制御系のコンピュータに電磁気的な影響を及ぼすなにかが周囲にあった」もしくは「オカルト的な何か」ということになります。
 田舎の山の中で自動車の電子回路に障害を引き起こすような電波が出ているとは考えにくいです。大体そこは田舎と言っても車道なのですから、そんなものがあれば大問題です。僕はこの時「オカルト」を採用する可能性を考慮してみて、そして、判断できないことで今すぐ判断する必要のないことは判断を保留しておくほうがいい、と思いグレーな世界に戻ってきました。

 そうして、コントラストの弱まった灰色の世界を眺めて見ると、オバケを見たということに対して「脳の錯覚」という反論は何の意味もないことに気が付いたのです。

 オバケではなくて脳の錯覚だという言葉を噛み砕くと、こうなります。

 『見るという行為は目から入ってきた光を脳で認識することだが、あなたの目にはオバケという物理的実体からの光は入っていない。なのに、あなたの脳はバグを起こして勝手にオバケの幻覚を作り上げた。全てはあなたの脳の中で起こった現象にすぎないのですよ。オバケという物理的実体はこの世界に存在しないのです』

 これは、「オバケの物理的実体」を否定するものかもしれないけれど、別に「オバケ」の存在自体を否定するものにはなっていません。
 その辺の風船とかリンゴとかコップとかみたいに、あるいは3Dの映像とかレーザー光線みたいに、人が目で見ることの出来る物理的な現象としてのオバケが否定されているにすぎません。
 だから、「オバケ」というものが、物理的な何かとして存在するのではなく「直接僕達の脳にバグを起こさせて幻覚を見せるという方法」で姿を現すものなら、それはそれで成立している訳です。幻覚かもしれないけれど、幻覚の原因はオバケかもしれないというわけです。

 これはオバケだけに留まる話ではありません。
 ある出来事がある一つの科学的な方法で説明されたとして、ある仕組みが解明されたとして、仕組みには常にさらに深い「仕組みの仕組み」が存在してます。「なぜこの爆発が起きたのか?」という問いの答えに「水素と酸素に引火したから」が提出されたとき、僕達はなるほどと頷くこともできるし「ではどうして水素と酸素は反応するのか?」という次段の問いを問うこともできるわけです。「ああ、分かった!」というのは階段を一歩登った印にすぎません。納得というのは思考停止と同じ意味の言葉です。

 冒頭の偶然に話を戻しましょう。
 それが、偶然か偶然でないか、を僕達は本当に見分けることができるのでしょうか?

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