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青い光の中で「美しさ」を発見したこと

 その頃、僕はまだ名古屋に住んでいて幼稚園に通っていたと思う。朝方にふと目が覚めると、部屋の中は静かで深い、しかし新鮮で軽快な瑠璃色だった。
 あまりにきれいなので、僕はびっくりして、どうしたら良いのか分からなかった。
 当時、家族4人で一つの部屋に寝ていて、僕の他に母も目を覚ました。僕は母に「こんなにきれいな中で話をするのはとても素敵なことで、また朝方に目が覚めたらこういう風に話をしたい」というようなことを言って再び眠った。

 これが、僕が人生ではじめて「美しい」というものに出会った瞬間だったのかもしれない。
 今から思えば、その早朝の光はそんなに特別なものではなかったのだと思う。毎日毎日、明け方も夕方も真っ昼間も夜も、空はどうしてこんなにと思うくらい美しい。

 去年の春から住んでいる部屋があまりにも寒いので、この冬は部屋の中にテントを張っています。テントの中に小型のデロンギを置いて、それから布団だとかテーブル代わりの箱だとか本だとか魔法瓶だとか水差しだとかも持ち込んで、やや狭いですが、たぶん狭い故に比較的楽しくテントの中で過ごしています。
 僕は元来「小さな空間にあれこれ機能を持たせて過ごす」ということが結構好きな質です。押入れの中にライトを付けて、水のタンクと洗面器で手も洗えるようにして、保存食をたっぷり置いて、みたいなことが好きな子供でした。
 それにキャンプも子供のときから好きなので、冬の間だけなら部屋の中のテント生活も良いものです。安普請なりに気にしてるインテリアが、この間はもう滅茶苦茶でインテリアも何もあったものではありませんがw

 そうして眠っているテントの中、早朝に目が覚めた。外から射す微かな光が薄い化学繊維の膜を淡いブルーに染めている。僕は「美しい」を発見した朝のことを思い出した。
 たとえ部屋の中にいて、外が完全な日常であっても、テントの中で感じる朝の光は特別に見える。どこかで活動を始め、鳴いているカラスたち。キャンプへ行っても朝にカラスの声を聞くことは良くある。少しだけ、このテントの外が川か山か海だったらどんな気分だろうかと思う。夏の朝の、野外で一晩眠った後特有の気だるさを思い浮かべる。
 それから、僕はテントの外、部屋の中へ出た。ものすごく寒いけれど、温かいテント内部にいたお陰で体が温まっていて苦にはならない。ヤカンをガスに掛け、冷凍庫からコーヒー豆を取り出してミルで挽く。カップにドリッパーを載せて、ペーパーの端を追ってセットし、挽いたコーヒー豆を移す。ビー!!!と朝を切り裂くような音で笛吹ケトルが鳴った。

 一月程前、橋本治さんの『人はなぜ「美しい」がわかるのか』という本を読みました。いつものバッサバッサとした明快さはなくて、なんだか良く分からない本でした。久々に本を読んで人が何を言っているのか良く分かりませんでした。でも、なんかこれは大事だなあ、と思う本でした。
 この本で初めて知った概念は「美しいが分からない人がいる」ということです。もちろん「美しさ」は人によってまちまちかもしれません。でも、その基準や対象がなんであれ「あっ美しい」と思って立ち止まったり躊躇ったりする瞬間は誰にでもあると思っていました。橋本さんは、それがない人もいると仰っています。

 たとえば、ここにAさんとBさんがいるとします。
 Aさんは「美しいが分かる」人です。
 Bさんは「美しいが分からない」人です。
 二人の前に、二人ともが「キレイ」と思う花があった時、
 Aさんはただ「美しい!」とボンヤリ感動します。その後で、この花を取って自分の部屋に飾りたいとか誰かに上げたいとか思うかもしれません。思わないかもしれません。どっちにしてもAさんの反応第一段階は「美しい」と思って一瞬止まることです。
 Bさんにはこれがありません。Bさんは、花を見て、次の瞬間にはもう「これが欲しい、部屋に持って帰ろう」「これを取ってあの子に上げよう」と思っています。「美しい」という停止した時間がありません。そんな人、本当にいるのかな、と最初は思っていたけれど、しばらくすると昔友達が言っていたことを思い出しました。

 彼は「腹減ったメシ行こう、とか、あの車いいじゃん欲しい、とかしか言わない人といると段々辛くなってくる」みたいなことを言っていたのです。僕も同じなのでそうだねと言っていました。
 その時、僕達は「頭の中がオトコ」「頭の中がオンナ」という区分を使っていたと思いますが、この時彼が言いたかったことは「美しいが分かる・分からない」ということだったのだと思います。
 ちなみにこの「美しい」は「キレイ」とはそんなに関係ありません。なんというか”他者”に出会ったときの一瞬の躊躇いという方が近いかもしれません。だから、「美しい」が分かるほうが「美しさ」が分かってエラい、ということではありません。
「頭がオンナ」=「美しいが分かる」=「ボーッと躊躇いがち」
「頭がオトコ」=「美しいが分からない」=「サクサク判断できる」
 という程度のことです。

 「分かる」の方が「分からない」よりエラいと思われてしまうので、誤解が高い確率で発生することを前提に念を押しておきますが、けして偉いとか偉くないとか優れているとか劣っているとかいうことではありません。ただ、そういう種類分けのようなものがどうやらあるかもしれない、というだけのことです。
 どうしても「分かる」の方が「分からない」よりも偉くて優れているような気がしてしまうなら「美しいが分かる人は、美しいが分からない、ということが分からない」ということに着目されると良いかと思います。もちろん、逆に「美しいが分からない人は、美しいが分かる、が分からない」わけです。
 理解ができないのはいつもお互い様ということです。
 
 人間というのは複雑なものですし、僕は最近「ある人」「個人」「僕自身」「アイデンティティ」というのは本当に「何か一つのもの(単位)か?」と思っているくらいなので、こういった区分に意味があるのかないのか分かりませんが、それなり合点のいく時もあるなあと、やっぱりボンヤリと思います。

人はなぜ「美しい」がわかるのか (ちくま新書)
筑摩書房


これで古典がよくわかる (ちくま文庫)
筑摩書房