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個性という嘘、支配と被服の選択について

『 若いときっていうのは、大人の着ているものを”崩す””バランスを変える””わざとだらしなくする”ことから、服を着はじめます。学生時代まではそういうふうに反抗していて、そして就職となると常識の中に入る。

 でも、そうでしょうか。
 一着の服を選ぶということは生活を選ぶことだから、実は大変なことなのに、学生時代は、あれは遊びだったんですか、みたいなクエスチョンマークがどうしてもつくんです。
 そうなると、子供の遊びの為に一生懸命作ってられないよ、という心境になることもある。
 
 一着の服装をするということは、社会に対する自分の意識を表現することですから、これくらいに髪切って、分けて、こういうシャツ着て、ネクタイつけて、スーツを着てってなれば、あの時代のあの選択をやめたんだな、残念ですね、と言うしかない。
 社会にそういう考え方があるということと、そういう考え方の中にずっといるという、この事実が、戦う相手としてはあまりにリアルすぎて、あるいは大きすぎて、まいったなあ、という感じです。

 ところが一方で背広は、服装に関してあまり訓練されていない人のためには非常によくできた服装です。誰が着てもみっともなくならない。ですから、どうしてもプラスマイナス両方の台詞が出てきてしまう。

 そんな中で、結局20年やっても何も変えられなかったじゃないか、という思いが去りません。 』


 これは映画「都市とモードのビデオノート」(監督;ヴィム・ヴェンダース)中での山本耀司の言葉だ。

 山本耀司は、この社会のどこにも属さないような服を提出し続けてきた。この映像が撮影されたのは1988年。20年やっても何も変えられなかったと彼は言っているが、それから22年が経った今も何も変わっていない。変わっていないどころか状況は酷くなっている。

 酷くなっていることは、橘玲さんのブログ( http://www.tachibana-akira.com/2010/10/807 )にあるJAL入社式写真に端的に表れている。
 1986年の入社式の写真と、2010年の入社式の写真が掲載されているのだが、1986年ではフォーマルとはいってもまだみんな色々な服を着ていたのが、なんと2010年の写真では全員がほとんど同じ服を着ている。
 橘さんも書いているけれど、「時代と共に人類はどんどん自由になる」と思っていたその逆のことが起きていて、僕はかなりの衝撃を受けた。

 先日、「ぼくらの七日間戦争」という映画を見直しました。
 子供の時に大好きだった映画だけど、今見ると物凄くチープに見える。
 古さとか、ストーリーの粗とか、そういうものから来ているチープさはどうでもいいことだけど、どうでもよくはない失笑を、今この映画を見ると覚える。
 その失笑は劇中に描かれる中学校の校則に対して起こる。
 映画は、ちょうど「都市とモードのビデオノート」の為、パリと東京でヴィム・ヴェンダース山本耀司を撮っていた1988年に日本で公開されたものだが、劇中に「オン・ザ・眉毛」という有名な台詞が出てくる。

 そのシーンでは女子生徒が一列に並ばされていて、教師が一人一人服装をチェックしていく。教師は物差しを持っていて、女子生徒の前にしゃがみこみスカートの丈の長さを計る。そして「±5センチ、合格」とかなんとか言うわけだ。スカートのチェックが終わると前髪の長さをチェックする。前髪が眉毛に掛っていると長過ぎるということで切られる。
「オン・ザ・眉毛」と言って佐野史朗が女子生徒の前髪をハサミで切る場面はこの映画のテーマを象徴している。

 子供の時はこういうのを見て「くそー、学校め」とか「教師の野郎」と思っていたと思うのだけど、今見たら憤りも何もなくて只の馬鹿げた冗談にしか見えない。
 良いとか悪いとかどうすべきとか、そういう議題になること自体がバカらしすぎるというか、キリストの絵を踏まないとぶっ殺されました、とか、生類あわれみの令で犬に石を投げたらぶっ殺されました、みたいな話を聞いたときと同じような感覚しか持てない。

 こういうのがまるっきり馬鹿にしか見えないくらいに時代が進んだのだなあと、うっかり思っていたのですが、どうやら時代が進んだのではなく、単に僕がそういう管理体制から離れて暮らしているというだけのことでした。
 大学以外の全ての学校、つまり小中高で「生徒」という人々、それから多くの会社で「社会人」という人々は管理されている。毎年10万頭の犬が二酸化炭素で窒息させられて殺処分された結果日本からすっかり野良犬が居なくなり全ての犬が管理下に治まったように、ほとんどの人間も今では管理下に置かれているということです。
 年々自由になんて大嘘でした。
 JALの写真がその証拠だ。

 服くらいで何を大袈裟な、と思うかもしれない。
 山本耀司って、だって、ファッションデザイナーだもん、そりゃあ彼にとっては服って重いかもしれないけれど、でも普通の人にとっては服は服じゃん。服を選ぶことは生活を選ぶことだ、とか大袈裟すぎ。って思うかもしれない。

 けれど、それは断じて違う。
 服は高々服じゃない。
 ただのおしゃれの道具でも寒さから身を守るためのものでもない。

 たとえば、過去の多くの時代で身分と服装はリンクしていた。だから歴史の教科書にも「当時の農民の格好」とか「当時の町人の格好」とかいったイラストを載せることができる。
 今も同じだ。

 「個性」という言葉がある。
 服とか管理とかの話をしたら、すぐに「あっ、個性がないとかの話でしょ」となったりするのだけど、そんな話はしていない。

 個性なんてどうでもいい。
 個性というのはガス抜きの為の言葉だ。
 ガス抜きの為の言葉でしかなく本質的でも大事なものでもなんでもない。
 個性という言葉で多くのことが誤魔化されている。

 僕がしているのは「支配」と「支配されること」についてのもっと生生しい話です。

 多くの場面でいつの間にか「個性」が「支配から抜けたもの」に読み替えられている。実際のところ個性は支配者の定めた「この中では自由にして良し」という枠の中で比較的活性の高い人に付く形容でしかない。本当に支配の枠を出た存在には個性なんて生ぬるい呼称はつかない。

「うんうん、君は個性的だから自由なんだよー、支配なんてされてないよー、だからそれ以上何も考えないでおとなしくしててねー」

 というのが個性という言葉が使われるときの本質だ。
 嘘と誤魔化しとガス抜きの為に使われる言葉だ。

 ちょうど会社で理不尽にこき使われているビジネススーツの若いサラリーマンが、ipodに入れたおしゃれな音楽と高級ヘッドホンとピストバイクによる通勤で俺は本当は自由人なんだと誤魔化しているように。

 構造が明治時代から変わっていない。
 日本文学の代表みたいに扱われている明治文学は大半が「若いときは反抗的になるし滅茶苦茶するけれど、でも大人になったら国家に尽くす」というのがカッコいい生き方だ、というプロパガンダを含んでいます。
 今も同じだ。
 「学生のときは滅茶苦茶したけどね、ほんとに」とか言って。

 反対に「面白いこと一杯したい」とバックパッカー世界一周をしてきたような「インドでガンジス川の死体見て人生観変わりました」みたいな学生たちが、「会社の内定式の服ってやっぱりみんなスーツ着てくるのかな」とかいうことを気にしているのを見ると非常な違和感と同時に納得を覚える。

「学生まではなんでも許してあげる。そのあとは従ってね」
「はーい」

 支配というのは何も「特定の人々で構成された集団」がいつも行うわけではない。村上春樹はそれをシステムと呼んだ。日本では最近「空気」と呼ばれているようだ。

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