石上純也という建築家について、あるいは自由について

「えっ!これはモデルで実は上から吊っている、とかではなくて、本当の本当に立っているんですか?」

「はい、そうです。本当に立ってます。吊ったりとかしてないですよ」

 僕達はあっけに取られて、地面から垂直に立てられた細い細い、真っ白な棒を眺めていた。あっけに取られてそれらを眺めているのは僕達だけではなかった。この広い会場に来ている他の人達も、それぞれに繊細な棒を眺めているはずだ。だけど、棒は細すぎて少し離れるとほとんど見えないし、棒と地面を斜めに結んでいるワイヤーはもっともっと細くて全く見えないので、そこでは人々が、まるでただ何もない空間をじーっと眺めているかのようだった。


 ”展示室8「雨を建てる」 scale = 1/1”
 圧縮材である柱の太さは、0.9mm、引張材であるワイヤーの太さは、0.02mm。
 雨粒の大きさは、0.1mm〜5mmくらい、雲の粒の大きさは、0.01mmくらい。
 雨粒のようなスケールの柱と、雲の粒のようなスケールのワイヤーで作られた建築。
 地上に雨が降るように、空に雲ができるように、54本の雨の柱を建て、2808本の雲の糸を張る。空気に溶けていくような、とても透明な建築がたちあがる。
 その透明性に、ぼくは惹かれる、なぜなら空間が透明だからである。
 (石上純也”建築のあたらしい大きさ”展、パンフレットより)


 2010年11月21日日曜日、愛知県の豊田市美術館まで「石上純也 建築のあたらしい大きさ」展を見に行ってきました。他に愛知県近郊を訪ねる用があったとかそういうことではなく、ただこの展覧会を見に行くためだけに京都から豊田市まで行きました。僕は暇で時間を持て余しているわけでも、交通費が有り余っているわけでもなく、むしろ両方とも不足しているのですが、この展覧会にはどうしても行きたかった。
 僕が遠くの展覧会までわざわざ出かけることは滅多にありません。さらに、この展覧会は建築の展覧会です。当たり前ですが、建築というのは家とかビルとか都市みたいに大きなものなので、展覧会をするからといって実物を運んでくるわけには行きません。だから建築の展覧会には模型とか図面とかスケッチとか写真しか並んでいないわけです。せっかく美術館まで足を運んだとしてもそこにあるものは資料であり実物ではない、というなかなか悲しいことが建築関連の展示では起こってしまいます。にも関わらず、建築に関する展覧会を遠くまでわざわざ見に行ったというのは、僕が石上純也という建築家をどれくらい好きなのかを端的に表していると思います。

 彼は天才的な詩人です。
 スケッチや作品を見ていると、建築という言葉と平行してどうしても詩という言葉が浮かんできます。
 何より、彼の書く文章がはっきり言ってそのまま詩であると、先ほど引用したキャプションを読んでも分かると思います。正確で美しい言葉を使う建築家は何人もいますが、これほど緻密で詩的な言葉を使う建築家を他に僕は知りません。
 そして、彼が立体や平面や言葉で表現するすべてのものからは透明な清々しい「自由」という香りが立ち上ります。

 この夏、「ヴェネツィアビエンナーレ国際建築展」で石上純也は金獅子賞を取りました。出展された作品は、細いカーボンファイバーを使った、空気のように見えない、幅4x高さ4x奥行き13メートルの構造体です。いくら企画展示部門であったとはいえ、ほとんど見えないし触ることもできない、つまりあるのかないのかよく分からない石上作品は建築という枠組みを大きく飛び出しているようにも見えます。現に、なんと作品は関係者向けの展覧会がオープンしたわずか3時間後に壊れて崩壊してしまいました。。建築なのにファインアート作品よりもずっと脆いなんて考えられないことですw
 それでも、石上純也は金獅子を取りました。僕は夏の終わりにこのニュースを聞いたとき「なんかものすごいことが起きた!!!」と鳥肌を立てたのを覚えています。
 崩壊したにも関わらず、彼の作品は国際的な舞台で認められました。それは石上作品が現行の建築の枠組みをはみ出しているけれど、でもギリギリ人々に理解可能であったということです。もしも石上純也が建築家でなかったなら、誰も彼のことを理解できなかったかもしれないなと思います。建築という言葉が彼の思考とこの世界を繋いでいるような気すらするのです。

 その彼の思考のことを「自由」と呼んでも構わないと思います。僕が石上さんのことを好きなのは、それが自由というものから湧きだした何かだと感じるからです。
 自由というものを定義することは今の僕にはできません。もしかしたらそれは原理的に不可能なことなのかもしれません。あるいは僕は自分の好きなものに「自由」というラベルを張り付けているだけかもしれません。どういうことかははっきり説明できないけれど、でも僕は「自由」から湧きだ出したものが好きです。
 自由から湧き出したものが好き、であり、同時に自由でないものに恐怖を感じます。自由でないものが連想させるのは戦争とかイジメられて自殺してしまった子供とかそういう悲しくて息苦しくてやるせないものです。脳裏に浮かぶイメージは68年のベトナムで頭を打ち抜かれるベトコンの映像とかそういうものです。あの時、頭を打ち抜かれて射殺された男はゲリラの将校でした。その男のこめかみに銃口を当てて無慈悲に引き金を引いた男はアメリカ兵ではなく、同じベトナム人でした。当時南ベトナム大統領の側近だった男です。実はこのピューリッツァー賞を取った有名な映像のわずか数時間前、射殺された男の率いるゲリラ軍は射殺する方の男の仲間や家族を皆殺しにしています。こめかみに銃弾を打ち込む時いったいどんな気持ちだったのだろう。仲間や家族を惨殺された果てしのない怒りとかベトナム人同士でいったい何をしているのだろうとか、もうぐちゃぐちゃで感じることを止めてしまいたい状態だったのではないかと思います。アメリカとソ連の代理戦争で国民同士がその家族まで殺し合うこと。そういうことに含まれる閉塞感と恐怖を、僕は自由でないすべてのものから感じ取ります。
 だから、僕は自由が好きだというより、自由を激しく希求している。
 そして、どんなに大げさに聞こえようとも、僕にとって石上純也という建築家は自由の象徴です。

石上純也|ちいさな図版のまとまりから建築について考えたこと (現代建築家コンセプト・シリーズ)
INAX出版


石上純也 建築のあたらしい大きさ
青幻舎