放棄されがちな自己決定権の決定権

「自分で何でも決めていい」というのは嬉しいことの筈なのに、実際のところ「自分で何でも決めていい」は恐れられ遠ざけられている。そして人は自分の外部に答えを求める。

 たとえば、幸福かどうかというのは、本来は自分で決めて良いことだと思うけれど、「自分が幸せかどうかなんて自分で決めればいい」と言っても、大抵の場合は戯言にしか聞こえない。

 外部の基準を参照することが深く浸透しているので、自分で自分の基準で決めて良い、という言葉はまるで言い訳のようにしか響かない。「あの人は車が買えないから、車なんてなくても幸せだとか負け惜しみ言ってんだろう」「お金なくても幸せとかバカじゃないの」みたいにしか解釈されないということだが、それは判断を下す人間が自分の価値観で全てを計ることができて本当はあの人だってこちらのことがうらやましいのだと思い込みたいからだ。自分とベクトルの異なった尺度で生きている人間からはうらやましいとも思ってもらえないし尊敬もされないので本当はそのことが怖くて目を背けている。

 人と比べても意味がないとか、そういう台詞はたくさん出回っている。でも、それらはちょっと婉曲すぎる。人と比べて幸福を計るどころではなくて、多くの場合、人は自分が幸福かどうかを他の人に決めてもらっているからだ。
 人に人の基準で、たぶん誰かの基準ですらなく、漠然と社会に共有された、あるいは国家や広告会社の作り上げた基準に照らされて、幸福かどうかを決めて貰っている。他の人に「あなたは幸せです」とか「あなたが羨ましいです」と言って貰わなくては安心できない。
 やりたいことが見つからないという人は、多分「やりたいこと」が見つからないのではなくて「人に羨ましいと思って貰えるようなやりたいこと」を見つけることができないだけだろう。
 これらは端的に、その人の生き甲斐が、積極的には人に羨ましいと思われたい、消極的には人に哀れまれたくない、という点にしかないということを表している。
 これは善悪以前に、ただ蔓延する緩やかな恐怖であり、人間の社会性だと一言でパッケージして肯定はできない。恐怖からの逃避と喜びを履き違えると強い歪みが生じるし、複雑な構造に発生した歪みを取ることは最初からそれを作り直すよりずっと難しい。
 そうか全部自分で決めて良かったんだ、と思い出す時、僕はなんだかほっとする。

翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない (ちくま学芸文庫)
筑摩書房


寝ながら学べる構造主義 (文春新書)
リエーター情報なし
文藝春秋
広告を非表示にする