流動性という希望


 ちきりんさんがブログの新しいエントリで赤木智弘さんのことを書いている。
 赤木さんは、著書「若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か」と、その元になった論文「「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」を2007年に出された方です。
 この論文が出たとき、「フリーターが絶望して、ついに戦争が起こればいいのにとか言い出した。甘ったれてバカじゃないの」みたいな感じで、結構たくさんの人が嬉しそうに批判をしていたのを覚えている。
 「戦争」という単語が出てきたら世間的にはほとんど無条件に”叩きのめして良い”ことになっているので、ニートとか引きこもりとかパラサイトとか仕事を選び過ぎとか、”甘ったれる若者”叩きが流行っていた当時、赤木さんの論文は格好のターゲットだったのだと思う。

 僕は赤木さんの論文も著作も読んでいないから、ここではその内容に踏み込むことはできない。
 ただ、ちりきんさん流の「希望は、戦争」に対する解釈を読んで、少し思うところがあるのでそれを書いておきたい。

 ちきりんさんはブログ中に表を示して、日本の経済を、

「学歴、身分に関係なく誰でも成り上がれた戦後混乱期(経済ダメ:流動性高い)」

    ↓

「高度成長が続いて”学歴社会”などのシステムができた時期(経済イイ:流動性低い)」

    ↓

バブル崩壊してから現在(経済ダメ:流動性低い」

 という時期に分けて説明し、その次のステップとして、これまでのように経済政策が効を成さず、”経済イイ”に戻れないんだったら、じゃあせめて流動性だけでも高めたいというのが赤木さんの言う「希望は、戦争」なのではないか、と書かれている。

 これは実にすっきりした説明に見えるし、他の要素は無視してとりあえずこの2次元のマトリクスで考えると、僕達は確かに”経済イイ”に戻れない以上「ここに留まる」か「流動性を高める」しかない。加えて、実は「経済の良し悪し」と「社会の流動性」は独立ではなく関連しあっているので、流動性を高めることと経済を良くすることはほとんど同義かもしれない。だから、本当は元々焦点は流動性だけなのかもしれない。

 流動性について人が語るとき、大体は「雇用」「既得権益」という文脈になる。雇用に関して、もう学歴社会は終わったとか言うけれど、実際のところ僕が修士課程を出た頃、少なくとも3、4年前までは学歴社会というのは明白に残っていたと思う。リクルートスーツなんて死んでも着ないと言いながら博士に進んだ僕とI君以外、大学の友達は全員たいした就職活動もせずに誰もが名を知る大企業の開発や研究所に就職した。既に学部で3年も留年していた(おまけに1年浪人もしてる)僕はともかく、完全ストレートでやってきたI君は、自分も就職という道を選んでいれば大企業に行けただろうにその権利をあっさり捨ててしまったのではないかと随分悔やんでいた。僕達は友人の就職という事象を見て、その就職先を見て、はじめて自分達がそれなりのレールに乗っていたこと(僕はとうに落ちていたけれど)、世の中には本当にレールが敷かれていることを知ったのだった。

 ただ、だからといって「社会に流動性がない」というのは変な言い方じゃないかと思う。こういう言い方の方がいいんじゃないだろうか。「私は流動性が嫌いです」

 流動性はあるとかないとかじゃなくて、作るか作らないかの問題だ。
 少し前の茂木健一郎さんのツイートだって早々忘れられているかもしれないけれど、新卒採用が変だと思ったら新卒採用に応じなければ良いだけの話だ。「けど、そんなこと言うけれど、そしたら新卒採用にのっかって正社員になった人だけがいい思いしてセコい」とか反撃されるかもしれないけれど、その意見の方がセコいと思う。既得権益だって、誰かが既に見つけて持っているものを「ずるい」と言って狙うのはずるいと思う。時代を変える為には時代を変えようと思う人が時代を変えようと行動しなくてはならない。「新卒採用って変です、やめてください」と”社会”に向かってつぶやくのもいいかもしれない。けれど、変だと、イヤだと思うのなら、それに応じないという現実の手だてだって本当はあるのだ。そうして新卒採用に応募する人の数が減っていけば企業の方だって採用方法を改めざるを得ない。

 僕達の”社会”が流動性を失っているということは僕達が流動性のない行動をとっているということに他ならない。流動性は”社会”の”システム”が提供してくれるものではなく、僕達がダイナミックに生きることで発生するものなのだから。

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