芸術について1

 2000年、東京都現代美術館三宅一生展」。空間デザインを任されたのは当時まだ三宅デザイン事務所にいた吉岡徳仁
 悩む吉岡さんにイッセイミヤケからの言葉。

「子供が喜ぶようなものを作りなさい」

 吉岡さんは服がピョンピョン飛び跳ねるような演出をして展覧会は大盛況になる。プロダクトデザイナー吉岡徳人にとってこれはターニングポイントだったと何かで吉岡さんは言ってらした。

 芸術について書こうと思う。
 芸術について何かを明言するのはずっと避けてきた。避けてきたどころか、すべきではないと考えていた。丁度ウィトゲンシュタインが「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」と言って論理哲学論考を括ったように。哲学の問題は全部ただの言葉遊びに過ぎないわけだから、問題を本当に解決したいなら何も言わなきゃいいんだって言ったように、芸術に関しても言語を使いはじめると不毛な言語ゲームが始まるだけだと思っていた。

 一方、僕は言語ゲームのプレイヤーになる悦楽というものも知っている。もしかしたら言語ゲームの一番外側はウィトやゲーデル達によって指定されたかもしれない。ただ、一番外側までに無限の空間が広がっていて、さらにそれは無限個のレイヤーで構成されており、層を一つ飛び出すごとに巨大な楽しさが待ち受けているのだとしたら、僕達がそこで遊ばない理由はない。もしもこの宇宙の果てが分かったとして、僕達が銀河の探索をやめる理由はない。人生が80年で終わるからと言って、今すぐそれを終わらせるなんて絶対にしない。

 だから、もしも芸術について語ることが不毛な言葉遊びだというのであれば、別にそれでも構わないから僕はこの広い場所で遊ぼうと思う。
 臆面もなく芸術という単語も使って。

 実は「それについては何も語るべきではない」というのは最強だけど、一番知的付加のないセリフなので、そこには面白味が全くない。言葉はいつも多すぎるか少なすぎるか、絶対に物事の本質にイコールすることはなくて、「それは違う」はいつでも当たり前のように成立するからだ。「それは違うんだよ。言葉では説明できないことなんだから」としたり顔で言っていれば、その人はいつも正しい。ただいつも面白味がない。目玉焼きは両面焼きがいいとか片面がいいとか、そういう話で盛り上がっている人たちの所へいって、「そんなの人それぞれの好みだし」と言って終止符を打つようなものだ。

 僕の知るある美学研究者は、「絵画の持つ言語か不可能な要素」を言語で説明することに苦心されている。
 この不可能と矛盾に満ちたような研究から豊穣な世界が立ち上がるのを僕は知っている。

 無論、面倒な人々と面倒な会話をしているときは「それって人によるから」とか「言葉遊び」だと終止符を打ち込むのもいい。でも、自分で自分の思考にそうしたピリオドを打ち込むのは考え物だろう。
 僕は芸術に関しては自分で自分に轡をはませていた。
 とりあえず、それは取り除こうと思う。「正しくない」ことは意識しているものの、僕には僕なりの芸術観がある。それは複数の意味と視点がエンタングルメントした観測前の量子状態みたいなものだから、あくまでリニアな単語の羅列である文章で表現することは、近似的にでもそれを行うことはとても困難だ。だけど、やらない手はないな、と今日村上隆さんのツイートを見て思いました。

 文頭に吉岡さんのエピソードを挙げたのは、僕は近頃「子供が喜ぶもの」というのをかなり重視していたからです。だから芸術について書こうかと思ったときに最初にこのエピソードが浮かんだ。

 最近、ブログが長文になりがちなので、今回はこのエピソードが持つ含みに到達する前に一区切りします。

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫)
リエーター情報なし
筑摩書房


形象という経験―絵画・意味・解釈
リエーター情報なし
勁草書房
広告を非表示にする