おいしい魚の見分け方

 先日、ツイッターに友達の昔話を書きました。
 茶髪の若造デザイナーが漁師村に研修で行ったらひどい扱いを受けました。そんな中、ある人が魚を釣り上げた時、「ここだ!今しかない!」と、その魚を完璧に処理して捌いて見せたら扱いが一変したという話です。彼は実は魚屋さんの息子で、魚の扱いに関してはほぼプロな訳です。

 彼がもう一つ話してくれた魚の話がとても面白かったので、ここではそれを書きたいと思う。

 それは魚の味のこと。
「魚ってさ、段々、身を触ったら味が分かるようになって来るんだよ。手が舌みたいになってくるというか。切るときに身を触るじゃん。何度も触って食べる、というのを繰り返していると、触感と味がリンクされて触っただけで味が分かるようになってくる。
 それでさ、魚捌くのって、目で見てよりも手の感覚でやるわけ。魚を見て、捌く、というのを何度もやってると、魚の骨格とかが頭の中に叩き込まれてくる。魚を見たら、その体の中が想像できて、捌くときの手触りも想像できるようになってくる。捌くときの手触りが想像できるということは、触感と味覚が既にリンクされてるから味が分かるわけ。だから、魚を見ただけで味がわかるようになる」

 これはすごい話だ。
 僕達がネットやなんかで目にする豆知識的な「おいしい魚の見分け方」とは次元が違う。視覚と味覚が、繰り返された経験によって身体的にダイレクトに結びつけられている。身体に染み込んだ暗黙知

 味に一番近い人間の感覚器は当然舌で、その舌が触覚とリンクされる。ついで触覚が視覚にリンクされ、三段論法的に味覚と視覚がリンクされる。
 これを空間的な言葉で書き直すと、その凄さというか便利さが引き立つんじゃないだろうか。空間的な言葉で書くと「接触から非接触へ」という表現ができる。触って分かる、から、触らなくても分かる、へ。

 中国の武術には聴勁という言葉があります。これは聴くと書いても、音を聴くわけではなく、相手の動き出しを触れた感じで読むものです。誰だかという名人は手のひらに鳥を乗せて、鳥が飛ぼうとするときに手を軽く動かして鳥のバランスを崩し飛べないようにしていたと。
 練習は相対する二人が手の甲を合わせて行う。手の甲にかかる力の方向、強さで相手の動きを読む。特に同じ流派の場合は攻撃の方法も限られているので、慣れてきたら目隠しをしていても攻撃を読んで対応することができる。

 そして、もっと慣れてきたら、実際には触れていないのに、触れているような気分で相手の動きを読むことができるようになる。らしい。

 もっともっと訓練を積むと、触れてないのに触れているような気分に相手になってもらい、こちらの動きを読んでもらって反応してもらう、つまり勝手に転んで頂く、とかそういう次元が待っている。たぶん最初は弟子とか同じ流派の人、次に誰でも、という風に拡張されるのだろう。
 そういうことが本当にできるのかどうか、僕は良く知らないけれど、武術の目指す方向の当然の帰結として、できるできないではなく、それができる方法を考えなくてはならない。

 十数年前、まだ二十歳前後だった僕達は「和合」という言葉を聞いて笑うばかりだった。じゃあ武道の究極はセックスだと言って、セックスのことをそう呼んだり(でもこれはたぶん大体正しい)。 
 ただ喧嘩に強くなりたかっただけの僕達は、型や約束稽古になんの意味があるのだろう、そんなの最低限にしてスパーリングだけしてりゃいいんじゃないの、と兄弟子や先生に生意気ばかりを言っていた。宇宙と一体になるとか、そういう訳の分からない宗教っぽい側面は無視して、戦闘技術だけを最短で身につけようとしていた。
 今は「宇宙と一体になる」というのが宗教的でも何でもない、ただの概念でもなく、かなりプラクティカルなことだと分かる。
 個人、個々、というノードが互いに都合の良いように、かつ、互いが快適であり最大パフォーマンスを発揮するようにコントロールし合い、さらに全体では最大のパフォーマンスが発揮されるように最適化されていること。各ノードの利己が全体の利益に調和すること。結果的にノード間の壁は「あるけれどない。ないけれどある」状態になること。
 もう道場を離れて長いけれど、気が付けば武術的な思考方向が自分のバックグランドになっているみたいだ。

他者と死者―ラカンによるレヴィナス (文春文庫)
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