移民という言葉がある

 移民、という言葉がある。
 どこか他の国からやって来た人のことを、僕達はそういう風に呼ぶみたいだ。
 最近の日本では、少子化のせいで労働力が減っているから、若い移民を受け入れて彼らに働いて貰おう、という意見もある。
 そして、そんな知らない外国人なんかが来たら怖いし気持ち悪いしマナーも悪いに違いないから嫌だ、という意見もある。

 僕にはずっと素朴な疑問がある。
 国ってなんだろう?
 どうして僕達は国境というものを意識しなくてはならないのか?
 国境、というものを無視して移動すると、誰がどのように困るのだろう?
 
 今日から、世界中の人が一斉に国境を無視して生活し始めたら、世界はどのようになるのだろう。過激派テロリストみたいな人がどんどんと東京とか大阪に住み着いて国会が吹っ飛ばされるとか、みんなそういうことを思っているのかな。アフリカからHIVキャリアがたくさんやってきて日本もHIV大国になってしまうんじゃないか、とか。
 一体なんだろう?

 砂漠の真ん中の水のないところに暮らす人々を見て、うわーなんて過酷な暮らしだ、よし井戸を掘るお金を集めて送ろう、とか思うのも立派かもしれない。
 けれど、僕はこう思ってしまう。
 もっと水のあるところに引っ越せば、と。 引っ越す労力とお金を援助したほうがいいんかないかと。

 ある地域が過酷で不幸だと、たいていの場合援助は「その地域に物資と労力を運び込む」形で行われる。じゃあ、うちの国のあの辺に引っ越しなよ、力貸すから、とはあまり言わない。

 もちろん、引っ越しの壁となる種々の問題があることは分かる。そこに住んでいる人だって、過酷でも愛着のある土地を離れたくはないかもしれない。大勢の人を移動させるには莫大なコストもかかる。
 いやいや、この国では毎年何万人もの移民を受け入れていますよ。とかいう人もいるだろう。

 移民から話を始めたのは大げさ過ぎた。
 僕が思うのは、もっと簡単に名古屋から大阪に引っ越すくらいの手軽さで世界中の好きなところに誰もが引っ越せたらいいのにな、というようなことです。
 飛行機ももっともっと速くなって、そして安くなって。毎日東京からパリに20分で出勤したり。ちょっとお茶でもなんてカイロと上海の友達が10分後にニューデリーで待ち合わせて小一時間お茶して帰る、みたいな。

 そんな時代には、それぞれのキャリアに熱心な恋人達もお別れを言わなくて済む。キャルテックで教鞭を取る夫とパリにレストランを出した妻の夫婦が京都から出勤して、さらにその子供達はハワイの小学校に通っている、というような世界。

 情報革命の次は交通革命だ。
 テレビ電話では圧倒的に物足りない。
 長旅で遠くへ行く楽しみは宇宙へ向ければいい。

 「僕らは歩くよ どこまでも行くよ
  なんだか知らないが 世界を抜けて」
 「僕らは歩くよ どこまでも行くよ
  なんだか知らないが 白髪になってね」
  (小沢健二”大人になれば”)

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