味の素ではどうして嫌なのか

 しばらく前、フランスに住んでいる友達がツイッターで「ラーメンを異国の地で食べられるのは嬉しい。でも味に何かが足りない」と言うので、僕は味の素のことを思い出した。

 味の素というか、旨味という味覚のことを。旨味というのは日本人が発見したわけだけど、当初は欧米の科学者に受け入れられなかったらしい。端的すぎる言い方を恐れずに言えば、旨味がすでに入っている肉を食べている民族と、豆腐に大豆から作った旨味である醤油を掛けて食べていた民族の味に対するフレームワークの差異。

 それから味の素に反応して頂いた方と少しやりとりとしていると、その方は「美味しい天然ダシにこだわりたい」と言われた。

 僕は他の国のことを良く知らないし、日本人は特別に味の素を嫌う、という話も耳にはしたことがあるけれど、ざっと人間というものは化学調味料を嫌うものだと思う。

 それを美味しいと感じるかどうか、あるいはそれが人体に有害であるかどうか、という次元の問題ではなく、これは「この世界のものかどうか?」という問題なのだろう。

 味の素の美味しさじゃ嫌だ、というのは「幸福なボタン押し男」の問題に似ている。
 幸福なボタン押し男というのはこういう被験者のことだ。人間の脳にはここが活動すると「幸福感」を感じるという部位があって、彼の脳のここには電極がつながっている。ボタンを押すと幸福を感じる部位に電流が流れて彼は幸福を感じる。このボタンを彼自身に握らせたなら、彼は狂ったようにボタンを押し続け「幸福」を感じ続ける。

 さて、彼は本当に幸福だろうか?
 というのが、このシチュエーションの提示する問題だ。
 子供の頃、僕はこれは高尚な問題だと思っていた、とても幸せではない気がするけれど良く考えてみなくてはと、でも今はいとも簡単に「幸福なわけないじゃん」と答えることができる。やっぱり幸福なわけない。

 味の素のおいしさはなんか嫌だ。
 脳に電気を流して感じる幸福感も嫌だ。
 薬決まってる時の気持ちよさも嫌だ。
 精製された砂糖も嫌だ、自然の甘みがいい。
 山にはヘリではなく歩いて登りたい。

 こういう何かの為に「わざわざ」何かをしたい、というリストは際限なく続く。
 わざわざ面倒なことをするのは嫌な筈なのに、僕たちはわざわざ面倒なことをしないと面白くないと思う。たとえば、どんなに「サッカー選手になってワールドカップで活躍したい」と願う子供だって、そう願った瞬間に「オッケー、じゃあ今すぐにそうしてあげる」と神様が現れて、リフティングが急に1万回できるようになってワールドカップに放り込まれたら困るんじゃないだろうか。僕達が何かを望むときの望み方というのはそういうものじゃない。

 何かを望むとき、僕達は、現実にあるものを、自分の肉体や環境をうまく使って成し遂げることを望む。
 味の基だってその環境の延長なわけだけど、それはちょっとショートカットがすぎていて、その辺の匙加減は人によって異なるのかもしれない。

 この世界で、この世界にあるもので、それを使って遊び楽しむことを、心の底ではとても大事に思っていること。本当にこの星や宇宙と遊ぶために生まれてきたようなものだ。だから時には生きることがただの面倒の連続に見えても、その面倒の陰に喜びが霞みそうになっても、僕達は歩みを止めない。苦しいときも本当は僕達は遊んでいる。

マトリックス 特別版 [DVD]
リエーター情報なし
ワーナー・ホーム・ビデオ


古武術の発見―日本人にとって「身体」とは何か (知恵の森文庫)
リエーター情報なし
光文社
広告を非表示にする