阿闍梨と黒い犬

 この眠気は本物だろうか?

 早起きしたせいで、頭の片隅に集中的な眠気が残っているような気がする。でも、僕はこれを書こう。途中になっている酒井大阿闍梨の千日回峰行のことを書こう。

 眠いというのはどういうことだろう。
 この不思議な不思議な意識、それをしばし消すという、こっちも不思議な行為「眠り」。
 それを体が求めるというのは、本当は何が何を求めているということだろう。

 僕たちは横になり目をつむることはできる。でも意識的に眠ることはできない。何かの玄妙な作用で僕たちは知らぬ間に眠りに落ちる。そして、もっと自分のコントロールから遠いところで、意識が失われた状態で、起きようとすら思わず勝手に目が覚める。
 毎朝、一体何が僕たちを目覚めさせるのだろう。

 1999年のスーパーヒット映画「マトリックス」について。

 この映画では、僕たちが現実だと思っているこのリアルな世界が本当は全部幻想で、コンピュータから直接脳に信号を送って作り出されている仮想世界だということになっている。
 ほとんどの人はそのことに気付いていない。自分が本当はカプセルの中に閉じこめられていて、体中にケーブルが繋がれていて、脳に送られた信号の中で、バーチャルワールドの中で生きていることを。

 ただ、一部の人々は気付いて目覚めている。彼らはカプセルから解放されて、良くも悪くもリアルなリアルの中で生活している。ときどき自主的に頭にケーブルを繋いで、元いた仮想世界”マトリックス”を訪ねることもできる。

 キアヌ・リーブスが演じる主人公ネオは、最近”目覚めた”人間で、マトリックスを支配しているコンピュータに戦いを挑むべく戦闘訓練を受ける。マトリックス中での、仮想現実の中での戦闘訓練。

「息を切らせているが、本当に息があがっているのか? 本当に辛いのか? ここは仮想世界でお前の体も仮想だぞ」

 訓練の途中、激しい戦闘で息を切らせているネオに、コーチ役のモーフィアスはこう言った。
 考えてみたらそうだな、という風に、ネオはそれだけでノーマルな呼吸に戻る。
 ついこの間まで、仮想現実から目覚める前まで、リアルにリアルだと思っていた自分の体、走れば息があがり、叩かれれば痛い筈の自分の体。ついにそれは幻想だった。呼吸の苦しさも痛みも。
 これは僕にとってこの映画でもっとも印象的なシーンだった。

「この苦しさは本物だろうか?」

 僕たちは、この「現実世界」が本当は現実ではないことを今や知っている。21世紀というのは、ポストモダンというのはそういう時代だ。古くは仏教みたいなものもあるし、「この世界がバーチャルかもしれない」という気付きは太古からあった。でも、一般の人々が広く「これは本当の現実ではないかもしれない」と、たまにでも、ふと考える時代は結構最近だと思う。的確な言葉やアナロジーが昔はあまり沢山なかった。マトリックスという映画は高度なアナロジーを提供した上に娯楽大作に仕上がっていたわけだけど、そういう作品が出てくるのは僕たちの時代が成熟していることの証でもある。

 自分の生きているのが仮想世界という現実かもしれない、という微かな声。その声が広く浸透していること。
 そういう世界に生きる僕たちが「その苦しみは本物か」と問われること。そこにはものすごい可能性が潜んでいるように思う。
 
(つづく)

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