彼はもうこの棺桶の中にいない

「彼はもうこの棺桶の中にいない。賭けてもいい」

 1926年10月31日、「脱出王」ハリー・フーディーニはこの世を去った。死語80年以上たった今でも、たぶん彼は世界で一番有名なマジシャンだろう。

 死んだ後に、必ずコンタクトを取る。

 と彼は家族に言い残している。
 だけど、家族はフーディーニから何のメッセージも受け取っていない、ということだ。

 フーディーニは奇術家であるに留まらず、心霊現象にも興味を持っていた。人を欺くプロフェッショナルである彼は、インチキ霊能力者やインチキ超能力者をやりこめるオカルトバスターとしても活躍している。
 本当は、彼は本物の霊能力者を探し求めていた。

 そんな百戦錬磨の奇術家から、死後のメッセージが送られて来ないなんて、これはやっぱり死後の世界がないことを意味するのだろうか。もしも死後の世界が本当にあるのなら、彼ならあれこれ工夫してなんとかメッセージの一つや二つを送ってくれそうなものだ。

 対して、実は僕は死後の世界はあると思っている。どうしてそう思うのかと聞かれると返答には窮するけれど、死後の世界がない、というバイアスを掛ける理由も見当たらない。
 僕達が「死んだら終わり」と考えがちなのは、自分という存在を肉体だけに結びつけて考えているからだ。

 確かに、肉体は僕達の存在の多くを担っているかもしれない。けれど、肉体の中に、肉体という物質から「私」という意識が発生する、というアイデアは全く頂けない。何度も書いているように、身体や脳の中で起こっている電気信号のやりとりと化学物質のやりとり、それら物理的な現象と僕達の「意識」の間には埋められないギャップがある。
 だから、肉体はこの世界とやりとりする為の必要条件かもしれないけれど、十分条件ではない。

 かといって、ここで僕は「肉体ではなくて魂に”私”は担保される」と言うつもりも毛頭ない。
 そうではなくて、「”私”が何か一つのものに担保される」という発想そのものが実は変なんじゃないか、ということを言いたい。
 肉体だろうが魂だろうが同じことだ。何か一つのものが自分の本質であるという考え方は実はかなり変なんじゃないだろうか。

 僕は最近、この世界全部が自分だと考えている。ベルクソンが「知覚は脳で起こるのでなく知覚の起こるその場所で起こる」と言ったのも、そういう文脈で受け取っている(さらにここから場所という空間的な概念も排除して)。

 だから、死後の世界というのは、僕達の想像するようなチマチマしたものではないのだ、きっと。
 ”私”という肉体を失った、”私”の去った後も続くこの世界、その世界そのものが文字通り”私”の続く”私”の死後の”私の死後の世界”なのかもしれない。

 セミの声がすると、世界はキラキラして、同時に死のことを強く思い出す。けれど、その死もただ暗いものには見えない。
 光と陰のコントラストが一番強い季節。コントラストは僕達の持つ一番大切な何かの象徴かもしれないな、なんて朝から麦茶でも飲みながら床の上で思う。

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