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幻想の最下級兵士

 本当に本当に、僕たちはそんなことを気にしているのだろうか。
 世間体を気にするというのは、本当にはどういうことだろうか。
 世間体を気にすることと、誰かを差別して苦しめることは、本当は同じことなんじゃないだろうか。
 世間体を気にするということは、自分を安全なマジョリティーの中に置きたいという願望で、それはマイノリティーは攻撃されても仕方ないという諦めと恐れと差別への無言の荷担から来るものではないのか。

 数日前のBBCはゲイの神父の問題を取り上げていた。そんなもんを大の大人が真剣に議論交わすものだって本気で本気で思っているのだろうか。
 カトリックの教義を幼少から骨身に叩き込まれたらそういう風になるのだろうか。

 「あの超ダサい人」とか「あのアタマおかしい人」とか「あそこの犯罪者の家族」とか、そういう人といることが、彼や彼女は本当に自分の心の底からイヤなんだろうか。
 本当にイヤならそれで構わない。嫌なものは嫌だろうから。

 でも、本当は自分は別にいいのだけど、関わりを持ったら自分も「超ダサい」とか「アタマおかしい」とか「犯罪者」とかの仲間入りになって、村八分にされて女の子にももてなくなって困る、というのが本音だったりしないのだろうか。

 だとしたら、こういうとてもおかしなことが起こっている。
 誰もが「共同体の価値観」という本当はどこにも存在しないものを、誰の心の中にも存在しないただのシステムを、自分の気持ちよりも優先させて生きていて、そのことが悲劇すら生み出している。
 本当は誰も嫌じゃないのに、みんなで嫌だと決めたことを守って、本当にしたいことのできない社会。
 実は人の悪口を言ったりいじめたりすることが快楽です、という人々と思想がドミナントな社会。

 昔、真島昌利は有名な「トレイン・トレイン」という歌の中でこういう歌詞を書いた。

 ”弱い者達が夕暮れ さらに弱い者をたたく
  その音が響きわたれば ブルースは加速していく

  見えない自由がほしくて
  見えない銃を撃ちまくる
  本当の声を聞かせておくれよ ”

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