きれいな街

 特に20代の後半、僕はずっと日本の「デザイン」に対して文句を言っていた。どうして日本の家はこんなにペラペラなんだ、車はこんなにダサいんだ、店の看板はこんなに酷いんだ、窓のサッシ誰が考えたんだよ、という風に街の中で目に付くものほとんどに対して文句を言っていた。

 言うだけではなくて、当然そう思っていた。全部コスト削減とデザインに対する無関心の産物で、そういういい加減なものに街が埋め尽くされていると。
 だから、僕は日本の街並みが大嫌いだったし、全部変えてやりたいと思っていた。街はもっと楽しくできると傲慢なことを思っていたし、それがいくつかの野外パーティーやインスタレーションめいたことをした動機でもあった。

 その日本の街並みをいとおしいと思うようになったのは数年前、スタジオジブリの「耳をすませば」という映画を見てからだ。
 このアニメーション映画の中では、普通の日本の街並みが丁寧に描かれている。どこにでもあるような踏切や電車やビルや家やマンションや道路や車やコンビニが。

 どうしてその映画を見た後、嫌いだった景色がOKになったのか、その理由は良く分からない。強いて挙げるなら、とても丁寧に描写されていたということだろうか。そこには、それがどこであれ、それが何であれ、自分の周囲に存在するものを受け止めて生きるという意志が存在するような気がした。目を開いて自分の住んでいる世界にコミットすること。僕達はそこから始めるのだ、結局のところ。

 そういえば、ジブリの作品では同じようなことを昔にも経験している。初めて映画館でもののけ姫を見たとき、家に帰って翌日、窓から見える山肌がいつもと違っていた。木々の織り成すそれはアニメの中で丁寧に描かれていたような見え方で見えて、僕は思わずはっとした。
 僕は毎日、ただそこにある景色の一部として漫然と山を見ていた。けれど、アニメーションで山をリアルに、あるいはリアルを超えてよりリアルに描こうとした時、絵を描く人達は木々の動きを微に入り細に入り観察したのだろう。そして、多分あるパターンのようなものを抽出した。ぼーっと見ていたのではけして分からないようなパターンを。
 映画の中で山肌を見るとき、僕はそのパターンを見せてもらったのだ。一度そのパターンを見てしまえば、丁度ダルメシアン知覚(注1)のように、以後いつもそのパターンを山肌に見ることになるのかもしれない。

 それに似た何かが「耳をすませば」のときにも起こった。僕は自分の周囲を慈しむように丁寧に見る、という、そういう視線の在り方を映画で体験し、体得した。

 お陰で、僕は今日もなんだか知らないけれどきれいな町に暮らしている。


(注1)ダルメシアン知覚:大抵の人にとって白黒の斑模様にしか見えない写真。ところが「そこには向こうへ歩いてくダルメシアン犬が写っている」と一言説明すると、とたんにみんなにダルメシアン犬が見えるようになる。一度見えるようになると、もうどこからどうみてもダルメシアンにしか見えない。

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北岡 明佳
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