僕達に自由意思はあるのか?

 久しぶりに自由意志について書こうと思う。何度か書いたことの繰り返しになるけれど、ちょっと整理しておきたい。いつもなんとなく気にして、その実あと一歩のところで考えることをやめていた。

 まず、僕達に自由意志があるのかどうかという問い。つまり、僕達は与えられた状況、おかれた環境において自由に行動や思考を選択できるのか?という問題。

 普段、僕達は自分で行動を選択していると思いこんでいるけれど、実はそうではない、と考える方が理に適っている。

 先に言葉を定義してしまおう。
 この文章中では、僕達が普段思っているような自分のことを素直に「自分」と呼ぶことにする。本当に「自分」という認識は存在しているのかとか、その認識はどこに担保されているのかとか、そういった問題はここでは問わないことにする。
 嘘でも本当でも僕達はそれぞれが自分という認識を持っている。そこには超常的に主体が発生している。主観が発生していることの超常的異常さと不思議については、これも何度も書いているけれど、また改めて別の機会に書きたい。今日は主観の不思議は問わず、その存在を前提として話をすることにします。

 僕達は自分という主体を持っていて、その主体の意志で物事を決めているつもりになっている。でも本当にそんな自分の意志なんてものは有り得るのか、という問題。
 僕達は自分で物事を決めているのではなく、全ての動作思考が単にメカニカルにピタゴラスイッチみたいに動いているだけなのに、それを自分の意志で決めたと勘違いしているだけなのではないか?

 ちょっとクドくなりましたね
 先へ進みましょう。

 人間という存在、自分という存在はあまりにも難解すぎるので、もっと簡単に人工知能をコンピュータで実現した場合のことを考えてみよう。
 先ほど書いたように、ここではAIが意識を持ち得るのかというチューリングテスト的なことは考えない。もっと言えば、ここでは意識や意志という言葉を使わなくてもいいかもしれない。その為に人間ではなくコンピュータを思索対象に選んだ。

 ここでのポイントはただ一つ。

”””「物理法則に従った一連の流れの連鎖」で動いているこの宇宙において、「今ここ」を起点とした流れなんて生み出すことができるのか?”””

 だって、宇宙は因果関係の連続で動いているわけですよね。それを「今ここ」で断ち切って、そこから全く新しい因果関係の連鎖を始めるなんてできっこないように見えませんか? なぜなら「今ここ」で連鎖を断ち切る時に僕達が使える道具もまた今までの因果関係の連鎖に含まれているからです。それどころか僕達自信がそこに含まれているのではないだろうか。宇宙にはそれしか存在していない(ランダムな要素については後述します)。

 AIを今のノイマン型コンピュータで実装するとします。僕達はその時何をするのでしょうか。僕達がすることはAIが自分で判断できるようなプログラムを与えることです。つまりルールを。それがどんなアルゴリズムでも、ファジーでも遺伝的でもニューラルネットでも、アルゴリズムを生成する為のメタなアルゴリズムであっても、僕達にできるのはこれまでの因果関係の続きにくっつける別の因果関係を与えることだけです。真に自発的に何かがAIの中で起こるわけではない。AIはアルゴリズムのレベルで与えられた因果関係に従い、もっと深いレイヤーではチップ内の電流の流れという極めて明白な電磁気学のルールに従っているだけだ。
 ルールに従って動くだけの機会を僕達は自由意志とは呼ばない。

 それがAIの中であろうと、ひいては僕達人間の「自分」という場においてであろうと。因果を断ち切って新しい何かを始めるなんて、そんな奇跡的な暴力行為を、我々は行うことができるのでしょうか。
 これはぱっと考えてみれば「できない」と思うのが普通だと思います。なのに僕達は24時間これが「できている」と思い込んで生きています。

 もちろん、これを「できない」と素直に認めて絶望していた人々も歴史上には沢山存在します。こう言った考え方はニュートン力学の誕生以降ずっと存在していて、機械論的世界観とかニュートン力学的世界観とか呼ばれてきました。
 全ては宇宙がはじまった瞬間の初期値で決まっていて、あとは僕達の人生の全部を含めて何もかも決められた通りに動いていくだけだ。自分の人生を自分で決めるなんて笑止千万って。

 長くなって来たので、続きは次回に。
 量子力学が登場したとき、人々はその「曖昧さ」に自由意志への一縷の望みを見ますが、考えてみればそれも。。。

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