僕はコーヒーが飲める

 新車の匂い、と名付けても良い匂いがあると思う。あの飛び回るプラスチックの分子をダイレクトにキャッチしたような匂い。父は数年前にきっぱりタバコをやめたが、僕が子供の頃、両親は共に結構なヘビースモーカーだった。

 新車の匂いと、早速そこに染み着いたタバコの匂い。夏の炎天下に止めておいて、それらの匂いが充満した車内。乗り込むときに換気はしたけれど、でもそんな短時間の換気がどうにかできる種類の匂いでもなく、さらに車内の空気をこれも独特の匂いを持つエアコンが強風で撹き回す。
 それで、僕はさっきチョコレートを調子に乗って食べ過ぎたばかりだ。
 こういう時、車が山道を曲がれば、僕はもう胃の中身をそっくり吐き出すしかない。運が良ければ車外かビニール袋の中に、悪ければTシャツとシートの上に。

 コーヒーという世界中で広く飲まれている嗜好品に対する僕のイメージというのは得てしてこういうものだった。
 何故なら、僕はコーヒーを飲むといつも吐き気がしていたから。

 味も香りも好きだった。小学生の頃はコーヒー牛乳を牛乳でかなり薄めたものを飲んでいた。コーヒーゼリーも食べていた。
 でも、そこまでだった。
 ある日僕は両親が飲んでいる「普通の」コーヒーを飲んでみた。それはなんだか重たくて、大人ぶって飲んだけれどしばらくすると吐き気に襲われた。

 何度か試してみても、どうやら僕は本当に「普通の」コーヒーを飲むと吐き気がするようだった。
 もう全然覚えていないのだけど、結局高校生になる頃には諦めて全くコーヒーを飲まなくなったと思う。祖母もコーヒーを飲むと気持ち悪くなると言っていたので、そういう遺伝もあるのかなと思っていた。

 以来、僕は出されるコーヒーも全部断って飲んでいない。作業の時に誰かが気を利かせて買ってきてくれる缶コーヒーも、客室で出されるコーヒーも。
 もちろん、お店でコーヒーを頼むこともない。コーヒーの有名なカフェに入って結局はココアを飲んだりというように、それはそれでなんだか寂しいものだった
 一度だけ、サプライズでサイフォン一式を持って来てもらったことがあって、その時だけ一口飲んだ。その時も一口で「たぶんこれ以上は飲まない方がいいな」という感じがした。

 そんな僕が昨日コーヒーを飲みました。
 一口ではなく、一杯。
 吐き気もほとんどしなかった。

 吐き気もなかった、というのはコーヒーを飲んでのかなり消極的な、じゃあ飲むなよ、とでも言われそうな感想だけど、これは僕にとっては大きな前進です。
 コーヒーを飲んでも吐き気がしない。僕はコーヒーを飲むことができる。

 ずっと、別にコーヒーなんて飲めなくてもまあいいや、と思っていた。それが変わったのはあるブラジルカフェでのことだ。
 そのお店は僕の大好きなお店で、なんとブラジルコーヒーが一杯たったの200円という緩い値段設定になっている。僕はコーヒーとは無縁なので、いつもフェジョアーダなんかを目的にしてそこへ行っていた。

 ただ、一月程前にものすごく気になって一口だけアイスコーヒーを飲ませて貰ったらものすごく美味しかった。
 僕はコーヒーの味が苦手なのではなく、飲んだ後に吐きそうになることが問題だったので、味自体はとても魅力的だった。でも、後で吐きそうになることを覚悟してまで飲む気にはなれないし、一口飲んでおいしいなと思うに止めた。
 でも、コーヒーのことがなんとなく気になるようになった。

 そして昨日、アマゾンからローソンに届いていたタリーズジャパン創業者、松田公太さんの本「すべては一杯のコーヒーから」を読んで無性にタリーズのコーヒーが飲みたくなり、夕方に三条のタリーズでコーヒーを注文した。
 生まれて初めてコーヒーを注文した。

 注文するのもはじめてなら、カップ一杯のコーヒーを飲み干すというのも生まれて初めての体験だった。同行者に「大丈夫?」と見守られる中、僕はコーヒーを全部飲んでみた。しばらく立たないと気持ち悪くなるかどうかは分からない。

 ツイッターで状況を書くとなんと松田さんから直々にリプライがあった。「コーヒー好きになって下さい!」
 調子に乗って「もうなりました!」と返事をする。

 30分経っても、1時間が経過しても、なんと僕は気持ち悪くならなかった。どうやらもうコーヒーを飲むと気分が悪くなるという子供じみた体質はクリアされたようだ。こんなことならもっと早くに試しておけば良かったのかもしれない。
 もっとも、今回がたまたまオッケーだった可能性もまだあるけれど、近々、今度はブラジルコーヒーを飲みに行こうと思う。そして、ちょっとだけ、微かな憧れのあったこの飲み物にうるさくなんてなってみたりなんかして。

僕はコーヒーが飲める。

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