記憶すること

 記憶力が悪いのではないか、ということを意識し始めたのは中学生の時だ。
 今もはっきりと覚えている。塾では英語の授業の最中だった。不規則変化する動詞に重要なものがいくらかあって、それらを紹介すると同時に、もうこの授業中、今みんな覚えてしまおう、ということを先生は言った。
 覚える時間を何分か取った後、順に当てられて動詞の変化を言うわけだけど、みんなが100パーセントとはいかなくともちゃんと答えるのに、僕は僅かにしか答えることができなかった。
 もしかすると、怠け者の宿題すらしない僕とは違い、みんなは予習して既にいくらかを暗記していたのかもしれない。でも、多分そういうことではなかったのだと思う。少なくとも当時の僕はそう考えなかった。僕は記憶力が悪いのだ。あるいは覚えることが苦手なのだ、と思った。

 僕が中学生の時に通っていた塾には入塾テストがあって、その結果でクラスが分けられていた。僕は一番上のクラスにいたのだけど、実は学力テストの結果はそう芳しいものではなかったらしい。今更、このような胡散臭いテストの結果を自慢するわけでは全くないが、当時は学力テストの他にIQテストがあって、僕はそっちの方で輝かしい結果を出し、学力的には不十分であるが”将来の伸びしろを考慮して”そのクラスに入れてもらった。
 こうして半分インチキみたいに入った訳だから、もともとトップクラスにいた他のメンバーとは出来が違ったのかもしれない。でも、とにかく僕は他のみんなが数分間で覚えてしまったことを全然覚えることができなかった。記憶力の欠如を自覚した瞬間だ。

 考えてみると、僕は単純な記憶作業がいつも苦手だった。学校の勉強は概ね楽にこなせたけれど、ただ一つ、漢字は覚えることができなかった。これも僕が小中高と一貫して宿題を全くしなかったせいかもしれない。みんなが家で覚えて来るのに自分は何もしなかったからにすぎないのかもしれない。その辺りの本当の原因は分からないけれど、事実として学校の漢字テストでは僕はいつもクラス最低レベルだった。

 もっと考えてみると、僕は実は中学生になるまで「あいうえお」が言えませんでした。だから国語辞典を引くときも大変だった。「さしすせそ」まではなんとか分かったけれど、その次が何か分からなかった。
 予定を忘れたりとか、そういうことはなかったし、歴史の流れや物語は忘れないにしても、こういったシンプルな暗記はどうやら本当に苦手だったのだろう。

 だから、高校生のとき、僕はいくつかの記憶術に関する本を読みました。けれど元来の怠惰な性格も手伝い、それを実際に活用するよりも記憶術の勉強をいくらかすることで満足してしまっていた。記憶術の本に書いてある「円周率100桁覚える方法」みたいなのを一通りやってみて、よし円周率が言えるようになった、満足、という風に。
 それでそんなこともすっかり忘れていた。たまには思い出すこともあったけれど、それを使って何かするということは殆どなかった。15年間。

 それらの記憶が、要点だけざっと脳裏に蘇ってきたのは、最近1日10分だけしている韓国語の勉強の最中だった。英語には漠然とした知識の蓄積があるけれど、韓国語にはそれがない。中国由来の漢字語は日本語と似ているし文法もほとんど同じ。だけど、基本的にはやっぱり完全に未知の言語だった。音にも馴染みがない。「私=チョ(丁寧)、ナ(丁寧でない)」などという単純で基本的な暗記から始めるのは大変だ。やっぱり単語を覚えるのにもとても時間が掛かるし、覚えてもすぐに忘れてしまう。

 やっぱり大変かなあ、と思っていると、ふと記憶術のことが思い出された。それは説明可能な具体的なテクニック
としてではなく、暗黙知に近い形での記憶の蘇り方だった。頭の中で何かのストーリーを紡ぐようにして、日本語と韓国語を連結する。その紡ぎ方は自分では良く分からない何かで、15年前の僕にはなかった何かだった。15年間の経験と知識の集積が織りなすリンクの連続なのかもしれない。

 韓国語の学習に、この思い出された記憶術は役立っていて、なるほどこういう便利なものを僕は知っていたんじゃないか、どうして今まで忘れていたのだろう、これで韓国語の勉強も楽になる、少なくとも人並みに記憶できる、というようなことを考えていると、今度は「どうしてこれを本業である物理の勉強に使わないのか? どうして今まで物理に使わなかったのか?」ということに思い至り頭を殴られたような衝撃を受けた。

 物理を学ぶ上でも、僕は記憶力の弱さが結構な障壁になっていることを意識していた。もちろん、物理学を理路に沿って学ぶなら、それは単純な公式の暗記とは異なるものだ。だけど、やっぱり語学でいう単語のように最低限暗記しておくべきものはたくさんあるし、それは思い出せないならネットで調べたりすれば良い、というものでも全然ない。頭に入っていて思い出せるか、調べて分かるかというのことの間には天と地ほどの開きがある。周辺部まで全てを頭脳に納めるのは不可能としても、中心部は血肉としておかないと思考は進まない。

 そういうわけで、韓国語の勉強から大事なことに一つ気が付きました。15年前の自分にちょっと感謝したり、15年前のことを無駄にしなかったことに嬉しくなったり、15年後の自分が喜ぶことはなんだろうと思ったりしています。

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