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言葉による整体

 彼と最初に会ったのはクラブのトイレの前だった。多分もう10年近く前のことだ。メトロの男子用トイレは便器が一つあるきりで、僕が用をたしに行ったとき、ドアの前では何人かの男達が短い列を作っていた。何の音楽が掛かっていたのか全く覚えていないし、どちらから話し始めたのかも覚えていないけれど、僕の前に並んでいた男と僕は音の洪水の中で簡単な挨拶を交わした。彼はヒロシだと言い。僕はリョウタだと言った。彼は幼稚園で保父をしていて、僕はまだ学部生だった。

「後でまた」とヒロシが先にトイレに入り、少しすると僕はすこぶるテンションの高い二人組の白人の女の子に話し掛けられた。トイレを待っていると言うと、こっちは開いてるわよ、と言いながら彼女達は僕を女子トイレに引っ張り込んだ。まあいいかと僕はそこで用を足してフロアに戻った。

 この日からヒロシとはクラブ友達になった。クラブの外で会ったのは覚えている限り1度だけだ。電話はいつも「今日は何のイベントがあるのか?それは良いイベントか?リョウタはいるのか?」ということを聞くために掛かってきた。真夜中に色々な事が起こり、時は流れていつの間にか僕達の足はクラブから遠のいた。僕達は年に一度電話をするかしないか、という関係になっていた。電話の度に状況は変化していて、彼は何度か仕事を変え、恋人も変わって、ある時「結婚した。それから整体医院開いた」と電話を掛けてきた。結婚相手は前回の電話で「結婚したい」と言っていた女の子とは別の人だったが、それに関してはそれほど驚くことでもなかった。だけど整体の方には本当に驚いた。ヒロシが整体だって!!!そういうものと全く無関係に生活してきた筈の男が急に自分の整体医院なんて持てるのだろうか。

 「本当に治せるのか?」当然僕はそう聞いた。

 彼の話によると、ヒロシは前職で腰を痛めひどい坐骨神経痛を患ったらしい。それが病院に通っても一向に良くならないのである整体に掛かったところ一週間通ったら治ってしまったとのこと。それにいたく感銘を受け、早速なんとかという整体の学校に通い、免状を取得、開業、まだ勉強途中でもあるけれど、患者さんも治ってくれてそれなりに営業もできている、と言う。

 そうか。
 今まで彼は整体や医療には関わっていないけれど、考えてみれば保父を始めとして高いホスピタリティの要求される仕事をいくつかしてきている。実は整体師というのはそう突飛でもないのかもしれない。

 前置きがとても長くなってしまった。


 随分前にも書いたことだけど、春先に引越しをしたとき僕は腰を傷めて坐骨神経痛になった。前日にしたトレーニングの所為で筋肉痛が起こったのかと思っていたところ、痛みは片足にだけあり、それから痛みの質もいつもの筋肉痛とは違っていた。次に肉離れを疑い、やがて痛みがスネにも出たので神経痛だと分かった。
 坐骨神経痛に関する知識がなかったのでインターネットで色々と調べ、ラセーグテストが陽性だったので、状況を考えても椎間板ヘルニアによる坐骨神経痛だと考えるのが最も妥当みたいだった。
 手術をする、という他に現代医学が持つ選択肢は、痛み止めのブロック注射やもろもろの対症療法だけみたいだから、本当は一度医者にかかって原因の特定もした方が良いに違いないけれど、億劫だし、それに自分の見立てでまあ間違いないだろうと思ったので医者には行かなかった。

 代わりに僕はヒロシのことを思い出しメールを書いた。
 夜に返事の電話が掛かってきて、僕の状況を一通り聞いた後、彼は言った。

「ふーん。それだったら大丈夫だと思う。人には自然治癒力があるから。万が一ひどくなったら診るから。大丈夫」

 この一言で治ったような気がする。
 坐骨神経痛はストレッチや温めることで症状を軽減してうまく付き合っていくしかない、酷ければ痛み止め、もっと酷いなら手術、基本的に慢性、というイメージがあった。神経痛の痛みは今までの人生で全く経験したことのない種類の痛みだった。全く異常のないスネが勝手に痛くなったりするのは完全に身体のエラーだった。何もしていないのに痛いし、夜中に目が覚めるし、寝返りも打てない。これが慢性化するなんて困るな、と微かな恐怖があった。

 そのうっすらとした恐怖が、ヒロシとの電話によってきれいに消滅した。
 人には自然治癒力がある。
 自然治癒力は万能ではないし、医術の助けが必要なことだって沢山ある。この時の彼の発言を軽率だということもできるかもしれない。でも、実際に彼は、あくまで彼のケースではという限定下であれ、僕よりも遥かにひどい症状から回復していて、その人が大丈夫だというのなら大丈夫なのだろうと思った。

 この後、もう一つ小さなことが起こって、結局今は坐骨神経痛なんてすっかり治りました。

 治ったのは自然治癒力のお陰だろうし、ヒロシの助言はもしかしたらなくても良かったのかもしれない。ただ、僕にはこういう風に言葉を使うことも整体の本質なのではないかと思った。言葉を投げかけ、体に対する認識を変化させることで生まれる力がきっとあるに違いない。

整体入門 (ちくま文庫)
野口 晴哉
筑摩書房


三軸修正法―自然法則が身体を変える!
池上 六朗
BABジャパン出版局